『ネイティブダンサー/サカナクション』考


思い出に立ち止まったまま
冬の花のよう

この歌詞に共鳴できた時に、この曲の面白さは何倍にもなる様に思う。

冬の雪景色、きっと多くのものが白一色に染まり、生物の放つ彩りが失われている世界の中に、この歌詞の書き手はいる。

その中で咲く花は、寂しげで、儚げで、置いてけぼりで、
(周囲の景色との対比ではあるけど)とても美しい。
その"冬の花"は思い出の例えとして出てくる。

書き手の現実は面白みが無いのか、厳しい何かに直面しているのか、深い悲しみの中にいるのか、雪景色の中にいる様な状況なんだろう。

そんな中、唯一の心の拠り所として思い出があり、この曲はその思い出の中に精神を遊ばせる様子の曲として捉える事ができる。

まずピアノ、ボーカル、ハンドクラップ、ストリングスという、生っぽくて静謐さを湛えた様な音でこの曲は始まる。
構成音のイメージもかなり"雪景色的"だ。

それが1番サビに入り、唐突にエレクトロなダンスサウンドになる。そのサビの歌詞が

淡い日に僕らは揺れた
ただ揺れた
そういう気になって
思い出のように降り落ちた
ただ降り落ちた
そう雪になって

「そういう気になって」と「そう雪になって」の押韻に注意が逸れてしまいがちだが、それだけに留めておくにはもったいない程味わい深い歌詞だと思う。

「淡い日」は記憶として薄れていく、今現在からしたら自分の精神の中にしかない「思い出」を指し、そのぼんやりとした輪郭を淡いと表現していると考えられる。

「そういう気になり揺れた」
「雪になって降り落ちた」が何を指しているのかは、タイトルからして《僕らが踊った》という事を指しており、多義的かつ抽象的に捉えて良い部分だと考える。

僕"ら"である以上、思い出の中には僕の他に出てくる何かがあるのだが、それは故郷にいる家族なのか、友人なのか、恋人なのか、あるいは故郷そのものなのかもしれない。

とにかく今ある厳しい現実から、思い出の中にいる何ものかと、踊るような楽しい日々に思いを馳せ没入していく様子を音で表現している。

実際、1番→1番サビ→2番→ラスサビ
と、グラデーションのようにエレクトロサウンドの比率は増え、イントロにあった生っぽいアコースティックな音は減っていく。

精神世界における意識の移り変わりを音で表現しているのだが、思い出としていかにもな古い音ではなく、ビビットな印象を与える音選びをする遊び心が面白い。

ここから先は少し話が逸れるが、音楽は一曲単体で鑑賞されず、聞き手がその曲に思い出を
累積させ、音楽を聴く時にその思い出の鑑賞と累積を同時に行う様な側面がある気がする。

この『ネイティブダンサー』は、そんな思い出の鑑賞をする時にぴったりと寄り添い、"共に揺れて"くれる曲だ。

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