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初フリーライティング

自分の文章を書く、ということに少し行き詰まりを覚えている。そこで元Twitterで出会った『自分の「声」で書く技術』(ピーター・エルボウ、月谷真紀訳、英知出版)という本を買った。

日本から届いた本の目次を見て、実はすぐに、ああちょっと失敗したかも、と思った。半分くらいはグループで行うティーチャーレス・ライティング・クラスという自主勉強会の説明に割かれた本のようだからだ。

でも前半でフリーライティングという修練をとにかく薦めていて、これは頭でっかちで石橋を叩きまくりな自分には案外いいかもな、やってみようかな、と思い、さっそく今夜やってみた。BGMはこちら。デバイスはポメラ。こういう時、ポメラはやっぱり最高だ。

https://youtu.be/BDJMMACjhE4?si=rkkFX-JljEe8LNko


で、記念すべき第1回を以下に晒す。これからはそのまま晒すことはたぶんないだろう。発表を意識して書くとまちがいなくそれは本筋から外れたものになる作業だし、これじゃあんまり剥き出しでやっぱ恥ずかしいし。編集作業って大事。

ちなみに今回はあとから改行を加え、プライベートな過去を弱冠ごまかした。編集はそれだけ。

十分間のフリーライティングに挑戦してみる。思考の流れを止めずにタイプミスも気にせずに、というが、タイプミスはさすがに気持ち悪くてそのままにしておけない。ただ、あらためて考えてみれば別に早打ちをしなくてもいいのだろう。ようは振り返らず、想念の湧くがままに書け、ということだ。

葬送のフリーレンはやはりいい。いろいろといいけれどもラストの歌もいい。「ぜんぶ意味があるよ」このひとことに救われる人は多いだろう。ああ、この台詞で歌を自分も作りたかった、そう思わされた。

むろん同じような言葉を使った歌はいくらでもあるのだろうし、聞いた覚えもある。自分でもそんな台詞を誰かに向かって何度か吐いたかもしれない。

今までの歩みは無駄ではなかった、そう思えた瞬間、そうたくさんはなかったかもしれないけれど、間違いなくあった記憶はある。大半はもはやあいまいな記憶だけれども、たとえば彼女と結ばれた瞬間だってそうだろう。昔、あの不思議ちゃんに告白してOKもらった時だって。

そう思えば、忘れてしまっているだけでこの俺にだってあんがいと幸福な瞬間というのは多くあったのかもしれない。そしてこうして書くことでひとつまたひとつと思い出せるものなのかもしれない。

なるほど書く、というのは治癒の効果もあるな。これで何分だ?6分が経過した。でもたぶん普通のひとはここまでタイピングが早くないから、こんなに書かないのだろう。俺の場合は10分とは言わず5分でいいのかもしれない。あんまりながいと読み返す気もなくなるし。しかしこうして書くとお前もけっこうおしゃべりで、言いたいことはいくらでもあるのだな、というひとつ、自分の生命力というか、パワーというか、忘れていた何かを喚起させられるような感覚はある。なんだ「∃」というこの記号は。ある、と読むらしい。意味を調べたいところだが今はフリーライティング中だからやめておこう。打鍵が早い分、誤字脱字を直しても時間は食わない。さすが翻訳家。こんなものでいいか?

ああ、全部意味があるよ、の話だった。まあよく考えたらバタフライエフェクトじゃないが、いい方向にだけ意味があるとは限らない。今のこの瞬間、自分がこうして書いている、それだけのことがもしかしたら家族の危険につながる、危険をふせげない、そんな結果につながる可能性だってあるだろう。むろん、考えても仕方ない理屈だ。

全部意味がある、そう想わないとやっていけない、という諦めベースの(ここで10分)前向きな生き方なのかもしれない。

いわゆるスピリチュアルっぽく宇宙の意志みたいな方向の話だと嫌だな。感動も冷めてしまうな。

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