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4回目のカウンセリングを終えて

今回のカウンセリングは、ほぼこちらからの報告に終始しました。
というのも、悩んでいたことに対するアンサー的な出来事がカウンセリングを待たずして訪れたのです。
せっかくの30分間、私がずっと喋り続けてしまうことで、カウンセラーのサトウさんに価値を出してもらう時間が足りなかったなと反省しつつも、この1ヶ月で感じたり考えたりしたことが間違っていなかったとお墨付きをもらった気がします。

悩んでいた、といいますか、気持ちがだいぶ落ち込んだ週がありました。
女性ホルモンの波か、躁鬱的な症状なのか判別はつきませんが、
大体ひと月のうち2週間はウジウジモードになります。半分ウジウジです。
そういう時は、元々ない自己肯定感がさらに低下してしまって、
「なんでこんなに弱い自分がずっと悩みながら生きているんだろう、
 私は淘汰される側の人間じゃなかろうか。」
そんな考えが脳内を占拠してどうにもなりませんでした。

そこに対するアンサーとして、初対面の親戚との触れ合いがありました。

「今日は本当に、会ってくれてありがとう」
人生で初めて、「私と会う」ことそのものが肯定された気がしました。
社交辞令でも建前でもなく、血縁がつながることの安心。
それを言葉で伝えられた時、私は生きていていいのだと思いました。
むしろ生きねばならないのです。ここまで繋がった命を自分で意図的に途絶えさせるのは、ここまで生き抜いた先祖たち諸共淘汰されるべきと言っているのと同じだ、それは違う。と強く思うことができました。
家に帰っても、会ってくれてありがとうという言葉にぽかぽかして、今までうざったいと思っていた他人の子供が可愛く見えすらしてしまう。これまで知らない世界の見え方でした。

こうして、温かい血のつながりによって、私は自分が淘汰されるべきという暗い悲しみの底から救い出されたのでした。

そんな長々とした報告に付き合ってくれたカウンセラーのサトウさんが、なるほどなるほどと相槌を打ったのち、思い当たることを話してもいいですか、と言いました。

「近藤卓先生という方が言うにはですね。自尊感情には「基本的自尊感情」と「社会的自尊感情」というものがあります。
基本的自尊感情、と言うのは、自分が何してもOK、失敗してもOK。
何しても大丈夫、私は愛されているから、という気持ち。
社会的自尊感情、と言うのは、期待に応えること、他者に勝ること。褒められることで得られる気持ち。
言うなれば、基本的自尊感情は「安心」であり、社会的自尊環境は「自信」にあたります。」

サトウさんは学校でもカウンセラーとして働かれていたこともあり、学校で様々な子供たちを見てきたようです。
学校は、成功体験をさせようとする場所。つまり、社会的自尊感情を育てることができる場所。
そんな学校で、成績が優秀で「自信」を身につけた子が、頭のいい学校に進学して周りにもっと優秀な子を見つけ、「自信」を失うことがあります。
こうした時、基本的自尊感情である「安心」が大きい人は、挫折してもすぐ立ち直るらしいのですが、小さい人は中々上がってこれないようです。

「褒めるという行為は良くないな、と思っているところがあるんです」と、サトウさんは少し遠慮がちに言いました。これまでのカウンセリングで、私が褒められることを最大の糧にして育ったことを知っているからでしょう。

「いいことをしたら褒める、というのはですね、褒められる以外の行動をしたら歓迎されない、と言うことを刷り込んでいるようなものですから。
子供は大人に褒められることを選択するうちに、褒められない行動を選択できなくなるんです。大人に合わせる、ということになってしまうんです。」

私はこれを聞いて少し肌寒くなるのを感じました。
母は、私を無条件に愛していたはずです。
でも、母に歓迎されないことをした時は、静かに距離を置かれている気がしました。
何もかもを愛してはくれない、愛されるには母の理想でいなければならない。褒められる存在でなければいけない。そこから逸脱したものは私の行動として認められない、そんな意識がありました。
母は、「理想じゃない娘なんて認めない」とかそんなことは考えていなかったはずです。でも、母は無条件の愛情を注ぐのがきっと下手だったんだと思います。大好きと言ってくれたのは、死ぬ間際だけでした。

「ナツミさんは社会的自尊感情は高い一方で、本質的なところで「私が生きている意味なんてないんじゃないか」と思うのは、基本的自尊感情が足りていないからですね。いつも影のように引きずっているんですね。」

サトウさんはそのように言いました。

条件付きの承認と無条件の承認。
親が喜ぶことをして得られるのが条件付きの承認。
親が嫌がることをしても、あなたのことが大事よ、と言われるのが無条件の承認。

今回、親戚からかけられた言葉は無条件の承認そのものでした。
私がどんな人間であろうが構わない。血が繋がっていて生きている、それだけでいい。
この無条件の承認を受けた気持ちをできるだけ忘れないで、忘れたら繋がりを再確認したり、思い出して、だんだん普通の感覚にしていったらいい。ということでした。

ここからは、今回のカウンセリングを踏まえて考えたことです。

頻繁に繋がりを再確認しようとしても、すぐそこに会える親戚がいるわけではありません。今更親戚は増えないし、あれから三週間ほど経ってすでにあの日のぽかぽか自己肯定感は忘れかけてしまっています。

周りの誰も私に無条件の承認を供給してくれないなら、
自分で自分を無条件に承認して基本的自尊感情を育てるしかありません。

今日、会社の人と面談する機会があって、いい言葉をもらいました。
「自己肯定って言葉はあんまり好きじゃなくて、自己受け止め力だと思っているんだよね」
と、自称・自己受け止め力MAXのその人は言いました。

自分を肯定する、というか、等身大の自分を受け止める。
やる気になることもあるし、サボりたくもなる。
うまくやれることもあるし、うまくいかないこともある。
そんな自分を外から見つめて、それが今の自分だと受け止める。

私は、概念としての完璧なサラリーマン像や完璧な主婦像と自分をいつも比較して、「まだこれだけギャップがあるから満足しちゃいけない」と自分を律します。落ち込みます。でもそうじゃなく、自分で自分の等身大を理解して肯定してあげればいい、ということです。

他の誰も、親でさえも、私の全てを受け止めてはくれない。
でも私だけは、私を全て許していい。肯定していい。
そう言い聞かせてあげられたらいいんだろう、とその人と話していて考えました。

しかしながら、理想を追い求めることをやめてしまっていいんだろうか、と、自身の中で「待った」がかかります。
まだやれるはず、もっと上を目指せ、今の自分に満足するな。
今の自分を受け止めたらそれ以上はないぞ。
自分に期待してしまうから、自分はこの程度ってところで受け止めることができないのです。そして結局自分のことを何一つ評価できず、自分を潰してしまうのです。

これに対して、今現時点で私はそれを崩す考えを持てていません。難しいです。
これは次のカウンセリングのネタにでもしようかと思います。

ともかく、基本的自尊感情を自分で育てられないうちは、血縁は無条件に私を愛してくれることは日々思い出したいと思います。
先祖の仏壇に向かうってそういう意味もあるのかもしれませんね、もしかしたら。


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