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椎名林檎さんがいつも少し先を照らしてくれている話

新生活のはじまり、出会いと別れの4月。

ひとり娘がようやく幼稚園に通い始め、常々気になっていた家の中のあれやこれやをキレイにしようと片付けを始めました。娘が生まれて半年ほどで引っ越してきたこの家、いまだに謎の段ボールが多すぎる。3年間もそこにいたのか、君たち……
家事のお供に最近はよく音楽を聴いています。ハマりたてのヒプノシスマイク、なんかテレビでよく聴く曲、吹奏楽コンクールで吹いたあの曲……
とりわけ10代の頃から好きだった椎名林檎さんの曲は今でもよく聴いています。

といって、ふんわりと椎名林檎さんの話をはじめようとしています。
しかし、20年以上も前からお慕いしているにも関わらずそういえばライブに一度も行ったことがない!出待ち入り待ちをしたこともなければ、破産するまでCDやグッズを買い漁ったこともない!そんなんでほんとにファンかといわれると「も、もちろんだ!」と口ではいうけど目線は泳ぎに泳ぎまくってしまう。
でも!ただ人生の中、要所要所で、道のない先にポンと置かれたロウソクの火のようにあのお方の楽曲があった、そんな人は私だけではないはずです。
というか、話は逸れるんですけど(ここで?)、エンターテイメントって本当にそうで、音楽にしても「ここのベースの入りが!」「ここの歌詞が!」「ここの歌い方が!」「コード進行が!」などなど、聴くひと・状況によって無限に刺さるポイントがあり、それが心の栄養となり、世界を救ってるんですよね。最近気づいたんですけど。
だから全てのエンターテインメントは誰かの心の栄養剤であり尊く、それぞれの世界に入ることで知らなかった自分の感性にも出会うことができるんですよね……なんか歳を重ねて苦手なコンテンツがどんどん少なくなり、あれもいいわね、これもいいわね、うふふふふみたいになってきてる。30代以降に生きやすくなるわよ!ってこのことだったのか……

というわけで(というわけで?)、10代の自分が椎名林檎さんの楽曲に初めて出会った場所は、図書館でした。
当時は、図書館にCD貸し出しがあったんですよね。時代はMDに移行していましたが、誕生日とクリスマスが近い故に間のほぼ一年で流行ったものが全て冬にならないと手に入らないので銀色のウォークマンを長年愛用していました。(そしてMDを通らずMP3プレイヤーへ移行したので結果オーライではあった)
決して多くはないCDの棚。の、さらに狭いJPOPのコーナー。
厚紙で作った図書館用のCDケースにジャケットのコピーが貼られて並んでるんですけど、もう、背表紙のテプラの文字だけでも十分なインパクトですよね。

「無罪モラトリアム」

なんだこれ。手に取ったら取ったでギッチギチの囲み取材。な、なんだこれ………
家に帰るまで待てずに休憩コーナーですぐに拝聴したような気がします。当時は名盤だなんて知らなかったけれど、魅力的な音作りとお声、ちょっと大人な雰囲気の歌詞にすぐ虜になりました。
それからはゆっくりと、それまでに出たCDをきいていきました。中にはちょっと大きくなってツタヤで借りたのとか、ツタヤのレンタル品100円セールで買ったシングルとかもあったように思う。ありがとうツタヤ。シングルのカップリングも好きな曲が多かった。途中でグループになったりまた戻ったり、お兄さんとコラボしたり短編映画が出たりして、織りなす世界にワクワクしたり、考えさせられたり………
(そういえばラーメンズとの出会いはここでした。天城の役がすごく良かった。)

「少し先を照らしている」と感じたのは、自分は椎名さんの10歳年下な訳で、お美しいので俄には信じられないけれどライフステージとして10年先におられるので、その時々に感じたこともきっと楽曲に影響を与えているのではないかと思ったからです。
思春期で鬱屈しているときに聴く病床パブリックは夜道を走り出したくなるような爽快感があったけれど、そういう感じが遅効性に訪れる、じわっとした理解というか、歳を重ねてなんだか腑に落ちる瞬間があったりするのですが(まあこれもさっきの無限に刺さるポイントがあるのうちの一つなので個人の感想なのはいうまでもありません)、最近考えるのが「ありあまる富」についてです。
2009年に発表されたこの曲。15年前……え、もうそんなに?当時自分は20歳だったわけですが、こんなに地続きなの?ってくらい中身はまだまだ普通にこどもでしたね……。
団地の高層階から家具家電、車、アタッシュケース等々が宙を舞い、空中で爆発四散し、露の雫や花弁となって大地に降り注ぐ……テレビでMVを見ながら「えええええええええ」と普通に声が出たことを今思い出しました。ギリギリ電波を拾って辛うじて映っていたガッサガサのTVKでした。
今ちょっと調べたらテレビドラマの主題歌のため書き下ろされたみたいなので解釈が違うかもしれないんですけど(あと何故かサジェクトに龍が如くって出るのが気になるので後で調べてみます)、自分は最近出産を経験して今は3歳になる娘がいるんですけど、赤ちゃんってほんと、何にも持ってないんです。当たり前なんですけど。持ってないどころか服すら着てない。
なのに、剥き出しの命の輝きがめちゃくちゃ尊く眩しい。上手くいえないなりに説明しようとするとこうなる。今までの価値観が揺らぐくらいの衝撃。
なんだ、何もいらなかったんだな。世の中の人間って、赤ちゃんか元赤ちゃんしかいないもんな。
そんなようなことを考えたとき、歌詞の内容もMVもこういうことだったのかなってなんだか腑に落ちた感じがして。しかも一番最初に投げ捨てられたものはというと、テレビなわけです。
テレビに映るということは、大変大勢の目に触れると言うこと。また、当時はテレビに出るというだけで一目置かれるような雰囲気もありました。たくさんの人間に観られればたくさん批評もされてきたはず。お召し物から髪型メイク、持ち物、所作、言動等々、どうみえるか?価値があるように映るか?といったしがらみがあったりしたのでは。しかし、実際は命あることの輝きのみで十二分に事足りていた。憑き物がおちたというか、向こう側がみえたというか、そんな感覚だったのでは。
まぁ、実際の作曲当時のことは知る由もないけど、自らの生命に価値など感じじていなかった若い頃は「とにかく生きて」というよくあるメッセージだと思っていたありあまる富、少し踏み込んで理解できたようなそんな感じがしました。
二番の歌詞が他人事っぽいというか、違う世界の話を伝聞できいてるみたいな口調なのも「そんなわけないのにね」と優しく諭してるってことだったのかなあ、とか。ありあまる富をもつ「ぼくら」と、価値のありかを見誤っている「彼ら」を明確に分けたのも、見えているものが違うということなのかなぁ。

20歳で聴いた音楽が15年後に道を照らす光だったの、やはり優れた作品だったのだなぁと改めて。

きっとまだまだ夢だらけの人生だと思わせてくれる椎名林檎さんと、同じ時代に生きられたことに感謝をしながら、平凡な日々を丁寧に頑張っていこうと思う、雨の日の日記。




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