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私はこうして地域おこし協力隊になった

今回は、私がどういう経緯で地域おこし協力隊になったのか振り返ってみようと思います。これから地域おこし協力隊になろうとしている人、地域おこし協力隊になろうかどうしようか悩んでいる人にとって、少しでも参考になれば幸いです。

当初

私はもともと青年海外協力隊として海外で活動してみたいと考えていました。協力隊という活動に興味を持ったのは、ここがスタートだと思います。当時は東海地方に住んでいたので、ときどきJICA中部『なごや地球ひろば』へ行って世界の課題や開発途上国についての展示を見たり、カフェスペースで途上国の食事を食べたり、募集要項をもらってみたりしていました。

しかし、青年海外協力隊について調べるうちに、「私は海外で何ができるんだろう?」「募集要項に当てはまるスキルがない」「私が人に教えられることってあるのだろうか?」と、発展途上国の役に立てそうなスキルを持っていないこと、自分の考えが浅はかだったことに気がつきました。そこで、まずは社会人として働いて何かしらのスキルを身につけてから、それが発展途上国の役に立てそうだったらそのときにまた青年海外協力隊について考えようと思いました。

結局、日本で就職

(すみません、少しネガティブ発言が入ります)
ただ、『就職活動』というものをするのが嫌で、みんなが同じ色のリクルートスーツなるものを着て、髪の毛をぴっちり決めて、履歴書の写真はどこで撮った方が第一印象が良いだとか、面接の練習をして、よく聞かれることを調べて、ノックの回数は何回だとか覚えて、お祈りメールが来たと言い合う環境を受け入れられなくて、同世代が就職活動を始めても、私は「ワーキングホリデーに行ってみようかな」「PEACE BOATに乗ろうかな」と、何か月か就職活動から逃げていました。当時の私の選択肢は『就職』か『海外に出る』の2択だったんですね。しかし、周りがどんどん卒業後の進路が決まっていく中で、ワーホリやPEACE BOATのことを現実的に考えたら、まずは就職だなという結論に至り、渋々遅いスタートをきって就職活動をすることにしました。
今思うと、誰かに言われた「新卒というカードを使えるのは今だけだから、せっかくなら使ってみたら?」という言葉に納得して行動を始めたような気がします。そのカードを使って就職してみて、それでもワーホリに行きたいと思ったら仕事を辞めて行けばいいやと思って仕事探しを始めました。親にも心配をかけられないですしね。そんなこんなで(ここは割愛しますが)、卒業まであと5か月というところでやっと決まった会社を3か月で辞め(笑)、中途採用で入った2社目で5年間働き、2022年の秋頃退職し、1年の(自発的な)療養を経て、昨年の10月に地域おこし協力隊になりました。

知ったのは2年前

私が地域おこし協力隊という制度を知ったのは、着任する2年前です。
前職3年目のとき、生意気ながらも「ここでこれ以上学ぶことはない」「追いたい背中が近くにいない」「やってることがロボットみたいだ」「何か新しいことをやりたい」「何なら他の職業もチャレンジしてみたい」と思っていました。そして自分の興味があること、やりたいこと、就職先を探していたら、それを聞いた当時の取締役が東京に来ないかと誘ってくれて、その人と働けるなら東京へ行こう、東京の方が選択肢も多そうだし、次にやりたいことを探しながら働くのもいいのではないかと思い東京に転勤しました。
そしたら、東京に転勤して3か月後にその人が独立してしまって、私は「え!東京に来た意味(笑)」となったのです。と言っていてもしょうがないので、仕事を淡々とこなしながら、また自分がやりたいことを探したり整理したりしていたら、その半年後くらいにInstagramでSMOUTの広告が流れてきました。このとき、初めて地域おこし協力隊のことを知りました。

当時はコロナ禍で海外という選択肢が自分の中ではなかったので、「え!国内にも協力隊ってあるの?」と私の興味は一気にそちらへ向き、海外も大好きだけど、なんだかんだ日本が一番好きな私は、地域おこし協力隊について調べていた時にはすでにそれになる気満々でした。ただ、ここで一つ問題が発生します。当時の働き方だと、1か月ないし1週間のおためし移住や2泊3日の体験ツアー、休日の移住イベントなどに行けず、これは働きながら探すのは無理だ、早く仕事を辞めねばという考えに至りました。興味を持ったイベントが、どれもある程度の日数が必要だったのです。そこから約1年かけて自分が担当していた仕事を整理して引き継ぎ、地域おこし協力隊になりたいので辞めますと言い、5年間勤めた会社に別れを告げました。

青天の霹靂

タイミングが良くも悪くも、当時は心も身体も限界に近かったので、せっかくなら1年仕事をしないでゆっくり活動場所を探そうと思いました。そうして最初の3か月くらいは毎日目が覚めるまで寝るという時間を過ごし、だんだん体調が戻ってきたところで会いたい人たちに会い、行きたいところに行き、やりたいことをやりながら、SMOUTやJOINで自分がやりたいミッションを掲げている地域を探していました。しかし、タイミングというものはなかなかやってこず、やっと身動きが取れるようになったのに、今度は興味のあるミッションがなかなか出てこなくなって、そうこうしているうちに半年ほどが過ぎました(おかげで親孝行、祖母孝行、従妹や地元でお世話になった人たちとの時間を過ごせたので結果オーライですが☻)。

そして、半年ぶりの旅行で、長年の友人に長崎のお風呂に入っているときに言われたまさに青天の霹靂のような一言。

友人「なんかさ~フットワーク重くなったね。大学の時はあんなにフッ軽だったのに~。そんな考え込まないで動いてたじゃん。どうしたの?」

私「!?」

その時は、「ほんとだ~」「わ~なんか悔しいな~」って思いました。タイミングとかは言い訳も含まれていて、ちょっと興味があるものもあったのに腰が重くなっていたんですね。それが昨年の4月のことです。

一関市との出会い

そこから『足を運ぶ』ということを念頭に探し始めました。
移住フェアは3月に終わってたし、その次の大きいイベントは親との旅行と被っているし、またタイミングが合わないことも多々ありましたが、そんなこんなで昨年の7月、もうすぐ自分の中で設定した療養期間1年が経とうとしていたところで、一関市の現地説明会に出会いました。
詳しく見てみると18名募集していて、ミッションも自分の興味のあるものばかり、「一関市ってどこ?」と思いながら、PCとにらめっこしていても何も始まらないと思い、一歩踏み出して現地に行ってみようと思い、一関市に向かいました。
そこからはあれよあれよと言ううちに、現地説明会を楽しく終えて、東京に帰ってきてから岩手県出身の人に会える会に顔を出したり、ネットで一関のこと、地域おこし協力隊のことをたくさん調べて、「受かったらラッキー、受からなかったら次を探せばいいんだからとりあえず応募してみよう!」と自分を鼓舞して応募しました。

私はこうして地域おこし協力隊になった

結果は皆さんもご存じの通り、採用していただいて今に至るわけですが、こうして改めて振り返ってみると、私が今まで選択してきた道のその先に一関市があって、今楽しく活動できていることが本当に幸せだなと思いました。
今まで私に関わってくれた方々、相談に乗ってくれた方々、大切な友人たち、家族、みんなに感謝してこれからも頑張っていきたいと思います。

今回は長くなってしまったので、ここで終わりにします。
今度どこかのタイミングで、応募するときに見ていたこだわりポイントをお話しできたらと思います。ではまた!

最後まで読んでいただきありがとうございました!!