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扉開けて

◆呪い

初めての恋人と別れて、引き続きお姉さん達と遊んでいた。

遊んでいたお姉さんのうちの1人。
新しい世界をたくさん教えてくれる、無邪気な自由人が、ある日カミングアウトしてくれた。
二元論でヘテロの世界しか見えていなかった私の目から、鱗が落ちた。
お姉さんとして大好きだったものが、恋愛に変わった。

この人のおかげで、得たものが多分たくさんある。フットワークの軽さと、なるようにしかならない精神が最たるものだ。

大好きだった、私を包み込んでくれる存在。色々なものに囚われていない姿にとても憧れた。

楽しい交際期間を終わらせたのは私だ。
私の恋愛スタンダードルールは、初恋人によって作られたもの。簡単にはまとめられないが、しばらく尾を引く、呪いのようなもの。
他の人に絶対に好かれないようにする、ベタベタとずっと一緒にいる。最優先で生活するスタイルは、自由人にとって合うものではなかった。

すぐ振られてしまって悲しくて荒れた。
夜新宿で徘徊したりした。(といっても御苑側。本当にただ歩くだけなので、荒れるのレベルが低い。田舎の優等生は一生抜けないのだろう。)


あんなに人を好きになるエネルギーがあることが、若さだなとアラサーになり痛感する。
復縁したくて、もっとその人を知ろうと二丁目デビューもしてみた。
初めていったウーマンオンリーイベントは、案外モテて面白かったけど、enjoyというかinterestだったかもしれない。こんなにも知らない世界があったかと、興味深かった。

今でこそ、あれは全くもって間違ったアプローチだったとわかる。二丁目にいる人たちが、イベントにいる人たちが、マイノリティの代表では決してない。

当時、トランジットガールズというドラマを教えてもらい、どハマりした。
私は同性の方が好きなのか、と腑に落ちた気もした。

冷戦は終結

この頃には母とも仲直りしていて
何かあったら実家に帰って気を休められるぐらいにまでなっていた。

当然だが、人生を変えさせたのに結局添い遂げないなんて、と元恋人に母は憤慨していて、殺してやりたいとまた言っていた。十年経った今でも思っているだろう。怒りのベクトルが娘に向かないのが甘いところだ。

顔の好みというのは裏切られようがなんだろうが、変わらないらしい。
大人になった今も、母は私の見た目を好きでいてくれている。

私が同性を好きなことは、なんとなくばれていた気がする。

依存ダメ、ゼッタイ

二丁目で出会った人にアタックされて、2人目の彼女ができた。
5個以上歳の離れた大人。
結局、自分の知らない世界を知っている人に惹かれてしまう。入り口がそうというだけだが。

蓋を開けてみると、かなりの依存屋だった。私も大概な「メンヘラ」でしょうと思っていたが上回る存在だった。
生きている年数も長いし知らない経験もたくさんしていたけれど、あまり社会性のない人だった。

ちなみに、初恋人によって作られた諸々の中にはいいものもある。
人としっかり向き合うこと、向き合う時の態度など、恋愛関係なく大事なことの当たり前はあの時できたものだ。

2人目の同性の恋人は、向き合い方が私とは違った。

当時まだカフェバイトはしていたが、出勤するたびにこの恋人が不安定になるので、やめた。自分を変えたかけがえのない場所だったのに。恋人の機嫌を取ることが優先の呪いにかかっていた証である。


当時、私は就活を始めないといけない時期だった。
人前で話すのが好きじゃない私には、就活は苦行でしかなく、それもまた精神を蝕んでいたのだが、恋人は就活戦争のない文化圏にいたので何も理解がなかった。
多くの人と情報交換しようとすることも、彼女には不快でしかなく、相談はしないようにした。

就活は人生を振り返らないといけないこともあり、今までのnoteのようなことに悶々とすることもあった。1人で抱えていると、自分が頼りないから話してくれないんだよね…と恋人は勝手に病んでいく。
私の心の扉を、自分の不機嫌で無理やり開けようとする。

故意にしているわけでは無いのは分かっていたが、嫌だからやめて、と言えるものでもなかった。跳ね除けられない私もだめだった。

彼女は、物理的にも精神的にも0距離でないと不安になるのだ。お互いに全てを知っていたい、そうでないといけない、が彼女の当たり前だった。

付き合っていることが負担にしかならなくなった。

疲弊している私は素っ気なかったと思う。
もう私のことなんて好きじゃ無いんでしょ!とヒステリックになった彼女に、そうかもしれないや、と告げそのまま別れた。

と、すんなり終わってくれるわけもなく、かなり執着をされた。怖かった。

もう二度と依存されたくない。自立した人としか付き合わない、と決めた。私も絶対依存したくない。


と、そんなこんなある中、就活をサバイブすることが、目下の重要課題であった。

40年間の職業人生

私は就活に消極的だった。
教職もやめ、一般就職するぞ〜と初めは思っていたはずなのに。
自分が何をしたいのか、何になりたいのかは相変わらずなく。
その頃は女性しか好きではなかったし、温かい家庭を築かねばというコンプレックスも薄まり、専業主婦になりたい!と言う気持ちはすっかりなかった。
結婚なんてどうでもいいなとこの頃から思っていた。
人の気持ちは変わるものだ。


フリーター彼女を養える強い女になりたい気もする、とはいえ、精神的に自立している人しかもう付き合いたくないし、経済的な依存は精神の依存も生むか、
カフェ店員楽しいしフリーターでもいいか。
などと、ぐるぐる考えていた。

いわゆる就活ガチ勢には一度もなることなく、解禁してから渋々動き出した。
人を喜ばせる、役に立つことがいいな、という点を大事に、あとは好きなことで選んだ。

精神的に疲弊していた兼ね合いと、なるようにしかならないと思いつつも人生がかかっているプレッシャーとで、面接が大の苦手だった。
頭が真っ白になる。
もらったデパスを飲んでみても、あまり変わらない。
決まらない焦りがさらに追い詰めてきていた。

が、最終的にはなんとか決まった。

大学生活は、苦しみ抜いたなと思う。
しんどくて泣いている日も多かった。
多くの大学生が経験するような遊びはしてこなかったし、思い出は少ない。
それでも、自分を変えるために努力したことは誇りに思っていいよ、とあの日の自分を認めたい。

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