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籠の鳥

苦しい中学時代

無事にその地区でのトップ校に入学したわけだが、学校嫌いはそう簡単に治らなかった。

同じような子達が集まったはずなのに。
どうしても集団に馴染めない。
塾なら楽しいかとも思って、ハイレベルなところに入ってしまったら正直ついていけないし、内輪感が苦手。他の学校の子もいるのも人見知りには辛い。

10人弱のグループに最初だけ入ったものの、合わなくて抜けた。そういうことをすると、もう仲間に入れてはもらえない。
別に合わない人たちといる必要はない。
でも学校という小さい社会のなかで、異端なことをするのは致命的だ。

1人でお弁当を食べるようにもなった。
時折グループから仲間外れにされた子が、私のところに来るようになった。逃げ場になれたのは今思うといいことかもね。

女子中学生なんて、どれだけ学力が平均より高かろうが残酷な生き物で。
先生へのいじめも結構あった。くだらないことで先生が怒って時間が無駄になる、嫌な空気になるのが嫌だった。それを止めると、さらに仲間外れになった。
学校なんて大嫌いだった。
家で勉強していれば学校を休んでもいいルールは継続していたから、頻繁に休んだ。

この頃はまだ、ニコニコサバイバルスキルもなくて、どちらかというとチベットスナギツネのよう。
早くきた厨二病だった気もする。
くだらない人しかいないわ、この学校間違えたかなとしばらく思っていた。


部活は楽しかった。運動部に体験にもいったが、自分には到底無理なことを悟ったので、完全に文化部の道を歩む。
クラスでは馴染めなくても、部活ならなんとかなった、と思っている。
その後中高ずっと一緒にいてくれた友達とも、部活で出会ったか。

中高一貫で6年同じメンバー。
出だしで躓いた私は、結局取り返せはしなかったかな。
高校受験する勇気も出なかった。

その頃の家庭

兄は県外で寮暮らし、母は働き始めていた。
基本は二人暮らし。父方の祖母が、かわいそうだと犬を買ってくれた。
母が仕事でいない時は、犬と過ごす。

長期休暇は兄が帰ってきた。兄は大層荒れていた。中学入学早々に、父の不倫を知り、間に挟まれたのだから、そうなるのも当然か。
父は母の悪口をずっと兄に吹き込んでいた。お前は虐待されていた、あんな家出たかっただろう、だからこの学校に入れたのだ、等。ここに書けないくらい酷いこともたくさん浴びせられたらしい。
兄は帰省時に時々父にこっそり会っていた。最悪なことに、不倫相手との赤子を見ておいてくれないかと言われた、と帰ってきた日があった。
そんなことを言われて、平気なわけがない。ましてや多感な時期に。
そのストレスは、私に向いた。物理的にも精神的にも殴られていた。


長期休暇が怖かった。兄が帰ってくる、母も仕事でいない。家という密室で、母のいないところで暴力は振るわれた。逃げる手段も、まだまだ子供な私は持ち合わせていなかった。母が帰ってきたら、ずっとくっついているだけ。夜は母の寝室で一緒に寝ていた。部屋に入ってきてしつこくいじめられるから。腕についた傷跡や穴の空いた壁、割れた食器棚の写真を、いつか警察に相談する時のために撮っていたが、実行には移せなかった。

兄が怖かった。守ってくれない母も嫌だった。
でも、家族だから。仲良くしたい気持ちは0にならない。幼い頃は仲良しだったはず。
悲しいし怖いし辛かった。

当時のコンプレックス

当然、健全な家庭への憧れは極めて強かった。
同級生たちは、裕福でハートフルな家庭の子が多かった。
当時一番仲良くしていた子は、特にそう見えていたし、私とは違って優しそうな顔つきなので、それも大層羨ましかった。
私は顔がきつい、と強く自覚したのはこの頃だったか。厨二病は中2で終わったが、すでにできたきついイメージは変わらなかっただろう。

自分は敵を作りやすいのだ、と強烈に自覚をしたし、世界一可愛いと言われたはずの見た目も嫌になっていた。裏切り者の父に似ているのだし。

多感な女学生のビジュアルコンプレックスはなんとも強く、在学中は極力マスクをして生活していた。

強烈に残った出来事

私はいわゆる田舎の学級委員長タイプだった。
だめとされているものはだめ、白黒はっきりしたい。
よく言えば正義感の強い、悪く言うと融通の聞かないバカ真面目である。
ある日言われた、「⚪︎⚪︎ちゃんの言うことは正しいけど、それでは敵を作る」という言葉は、私の生き方を変えた。

正しいことを言うことは、必ずしも正解ではないのだ。

何を言うかよりどう言うかの方が大切で、相手に伝わったことが全て。
コミュニケーションを学んだ。
相手がどう思うかを考えて発言をしないといけないと、気がついた瞬間だったように思う。

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