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犬掛は歴史を変える

南房総市富山町犬掛。
通年の定説はまだ根強い。
永正一五年(1518)、里見義通の危篤に伴い、幼少の嫡子・義豊が家督を継いだ。しかし義豊が一五歳になるまでは叔父・実堯が陣代(後見人)として家督を預かることになった。一五になっても家督を返さない実堯を不審に思った義豊は、天文二年、家臣等と謀って稲村城で実堯を殺害する。実堯の長男・義堯は「仇討ち」と称して挙兵する。やがて雌雄の決戦の舞台として、犬掛で合戦が勃発するのである。

しかし、この定説は里見正史を丹念に調査してきたことで矛盾を見つけ、新説により改められるようになりつつある。
内乱の原因である義豊が少年だった説。遺言で叔父・実堯が後見人として政務をおこない、義豊成人ののちに家督を譲るということになっていた。しかし反故にされたため義豊が実堯を殺して家督を奪った。
しかし、義豊が生まれたとされる1514年の2年前には、義豊自身が高野山へ宛てた証文が発行されている。これは大いなる矛盾だ。
実際、義豊はこの実堯殺害の前に家督を継ぎ、1529年に鶴谷八幡宮の修理を行なっている。
乱の発端である実堯殺害の動機が一致しないのだ。

里見の当主であった義豊にとって、実堯や正木通綱の力が強大になってきたのは不都合極まりない。
実堯の子・里見義堯とその一党は幸い難を逃れていた。
義豊に対抗し父の敵討ちをするという大義名分に、多くの兵が参加した。
このとき義堯は、里見義豊が敵対する小田原北条氏との間に講和を求め、援軍を要請した。そして、犬掛の地で激突したのだ。

里見義堯は庶流で家督を得る野心はなかった。
しかし、主家である里見義豊の起こした一連の騒乱により、結果として弓引く仕儀となり、庶家が勝ってしまったのだ。

その後の里見義堯の戦いは、
関東騒乱の一翼を添えるものとなっていくのである。