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カテゴライズと多様性・・・ギフテッドという言葉

ズブズブと異世界ファンタジーの沼にハマっていた。いつの間にか底なし沼になっている。怠惰な生活の合間に,講義準備,レポートを読んでSNOOPYのスタンプ押し,再再試験のテスト作り,頼まれていたプレスリリースの仕事をしていた。

プレスリリースの方は決められた字数の中に著者の描こうとした思いと愚僧の思いを入れこむ。なかなかしんどい作業でした。愚僧みたいな際物に頼むのはどうなのかと問いたのですがね。お花畑状態が続く頭に刺激を入れるのは大事かもと。

まあ,やる気が起きないから・・・きっと桜前線と一緒に北上してくるはずさ。
それまでのんびりさ。

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少し真面目に

レポートを読んだりプレスリリース(Kindleで公開になったら紹介します)を書きながら脳裏に浮かんだ言葉が多様性。

多様性という言葉を使いながらカテゴライズしている現実。

改正学校教育法で「特殊教育」から「特別支援教育」に看板が掛け替えられて以降,児童生徒数が減少する中で特別支援学級や特別支援学校に在籍する数はうなぎのぼり。教育行政的には「障害に応じた適切な教育がよりなされるようなった」といのだろうが。

現実には,教育現場でのエクスクルージョンが進んでいるとしか見えないのだが。

本来学校における多様性は「学校,学年,学級集団の中に異なる特徴•特性を持つ子どもたちが存在する」と。現状ではインクルーシブ教育は「絵に描いた餅」,手詰まりの状況。先が見えてこない。

カテゴライズを分類と訳し,分類の対義語を眺めるとごちゃまぜor一緒or混合が出てくる。「ギフテッドの個性を知り伸ばす方法」で帯を描いていただいた木村泰子さんが障害という言葉を使わず個性とし,「まぜっこぜの学校」という言葉を使っていた。

問われるのは「何のためにカテゴライズするのか?」

ギフテッドも同様。

カテゴライズすることに意味があるとしたら

ギフテッドという言葉が,子ども(成人も含め)生活をより豊かにする。そして自己理解を促し,社会へ参画する足掛かりとなれば良いと思うのだが。
社会から分離する言葉であってはいけないと思うのだ。

老婆心炸裂(爆笑)

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