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俺たちは松田直樹を忘れない

2011年8月4日、一人の偉大なサッカー選手がこの世を去りました。日本代表が2002年日韓共催のワールドカップでベスト16に進出した原動力で、横浜Fマリノスの黄金期を支えた松田直樹選手です。歴代日本代表最高のサイドバックは内田篤人だと思っていますが、歴代最高のセンターバックは松田直樹だと思っています。

彼が亡くなってから今年で10年になります。本当に月日が経つのは早いものだと実感しています。

松田選手が亡くなったというニュースを最初に聞いたときは、何が起こったのか一瞬わかりませんでした。それぐらい衝撃的なニュースでした。まだ34歳だったのに。今の私の年齢より若いです。

松田選手の感情をむき出しにした闘志あふれるプレーは観ている人の心をゆさぶります。そんな闘志あふれるプレーは、Jリーグ歴代2位の退場回数という実績でもわかっていただけると思います。

松田選手の全盛期は、まだ今ほどヨーロッパへの移籍が盛んではなく、とくにDFの選手の移籍はほとんどありませんでした。もし松田選手がもう少し生まれるのが遅かったら、吉田麻也や冨安健洋のようなヨーロッパでも十分闘えるDFになっていたと思います。

実際、当時アーセナルの監督だったベンゲル氏は、松田選手を本気で獲得しようか検討していたなんて噂もあるほどです。

そんな松田選手は横浜Fマリノスの黄金期を支えていましたが、年齢とともにけがも増えてきて、思うようなプレーが出来なくなってきていました。

2010年マリノスから戦力外通告を受けた松田選手は、マリノスでの最後の試合で終了後にあいさつをします。そのなかで彼は涙を流しながら「おれまじサッカー好きなんすよ。もっとサッカーやりたいです。」と訴えていました。サポーターに感謝を表しながら、現役続行を表明し、移籍することを選びました。

そんな彼が選んだチームはJリーグよりも下のカテゴリーであるJFLに当時所属していた松本山雅FCです。

Jより下のカテゴリーではあるものの、サッカー専用のスタジアムをもち、Jリーグへの昇格を狙う野心あふれるチームでのプレーを選択したのです。

彼ほどの実績があれば、J1やJ2のクラブからのオファーもきっとあったと思います。しかし彼はJFLのチームをJリーグに昇格させるということに価値を見出し、命をかけることにしたのです。

そして移籍した年の8月2日、練習中に意識を失い、そのまま帰らぬ人となりました。急性心筋梗塞だったようです。彼が練習中に倒れたことを契機にして、Jクラブの練習場にはAEDが常備されるようになったみたいです。

彼の遺志を受け継いだ松本山雅はJ2に昇格、一時はその勢いでJ1でもプレーしていました。現在はJ2ですが、松田選手の魂を受け継いだチームはきっとまた這い上がってくると思います。

松田選手はあるインタビューで引退後について想像がつくかと聞かれてこう答えたそうです。

「それがまったく想像できないのが困るんだよね。カズさんみたいに蹴っていたいな。サッカーボールをずっとさ」

サッカーを心から愛した松田選手は、天国でも大好きなサッカーを思いっきり楽しんでいてほしいと思います。

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