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好きという気持ちすらインターネット全一問題

こんにちは、夜枕ギリーです。

『路傍のフジイ』という漫画を読みました。オモコロで激推しされていたという理由で以前に読んだ『リボーンの棋士』が作者だったので手に取ったのですが、良い作品でした。

安易なキャッチコピーを付けるなら「SNS/マウント/人間関係etcに疲れた現代人に送る」という感じで、周囲からは少し浮いてるけど、誰の目も気にせずに自分の人生を謳歌する藤井という男の話です。主人公は藤井ということになるんでしょうが、ストーリーはそれぞれ何かしらの鬱屈を抱えた周囲の人間の視点で進み、藤井と接することで少しの変化を得ていくといった、半オムニバス的な内容です。

SNS疲れなんていう言葉が生まれてもう10年は経っていそうな気がしますが、周囲からの評価とか、いいねやフォロワーの数とか、そんなものばかりを気にしてるうちに本当に好きなものややりたいことを見失ってない?みたいな、捻くれた言い方をすれば「いかにも令和ウケしそう」なメッセージを感じます。

路傍のフジイ 1巻より

でも実際に私もそういう周囲の目や数字を気にするあまり好きなことを好きと自信が持てなかったり、進みたい道とは違う方向に進んでしまったりと、自分を殺してしまう瞬間というのは日常的に起きています。VTuberという発信活動をしているので数字を気にしてしまうというのはある程度仕方ないし、それなりに折り合いはつけているつもりですが、そういう分かりやすい創作みたいなこととは全く関係のない日常でも自分を殺してしまいがち。

例えばその辺を散歩していてちょっと好きだなと感じた面白い看板や、なんかエモい路地を見かけたとき、インターネットで見かけためちゃくちゃ面白い看板や、めちゃくちゃエモい路地が脳内をよぎります。全国から選り抜かれた万バズの画像と比較すると、この看板は10いいねにもならなさそうだと。目の前の看板や路地はインターネット全一の舞台ではとても戦えそうにありません。

承認欲求もそこまで行くともう病気だし流石に大げさに書きましたが、そういう気持ちが僅かでも生まれているのは事実。ちょっと好きだなという感情をわざわざ評価の舞台に上げず、ちょっと好きだなというまま持っておくことが簡単なようで本当に難しい。

少し上で「好きなことを好きと自信が持てなかったり」と書きましたが、「好きなことを好きと言えなかったり」から書き直しています。なんなら別に言う必要すらないんじゃないかなと思ったので。もちろん言葉にした方がいい場面もたくさんありますが、それとはちょっと別の話として。

言葉にしたり、その好きという言葉を誰かに肯定してもらわなくても、まずは自分の中で自分の心の動きを肯定したい。「これ好き」にいいねが付かないと、その「好き」の価値や度合いが低いものであると誰が決めたのか。自分自身なんですよねぇ……。

姫様“拷問”の時間です 8巻より


好きなものを歌にして発表できる自信が持てるような、ドラゴンのようになりたい。……ひょっとしてアレか?みんなも堂々とこれが好きだ!と宣言するのが怖くなってきていてドラゴンに代弁させるという手法が都合がよかったのがバズりの一因だったりするのか……?

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