見出し画像

いきづらさを考えるときに起こっている、非常に大きな矛盾。

いきづらさ。
「いきづらさ」は繊細な問題だと思う。いろんな工夫によって解消したり、今より楽にできたり、寄り添うことはできるのだけれど、ぼくは「いきづらさ」に対する社会の捉え方に違和感を感じている。

それは、問題を解決すればいいという視点で、対処方法を突き詰めても、結局は「一般的な社会が正しく」て、それにあてはまらない者を支援している、ということを暗に言っているように思うから。

そもそも、僕たちは「いきづらさ」のことを本当によく考えているんだろうか。

例えば、こんな状況をイメージしてほしい。

A:歩くのがゆっくりな人に言う「どうして早く歩けないのか」

B:足を縛られている人に言う「どうして早く歩けないのか」

Aの催促は、人それぞれのペースがあることに対して、歩く速さの認識違いの問題だ。
一方、Bの催促は、そもそも歩くことができない人に要求することじゃない、理不尽だ。

僕は「いきづらさ」の本質的な部分は、後者Bの意味だと思う。

しかも、当人は縛られたまま、いったいどうやって歩けばいいのだ?思っていても、縛られている紐は誰にも見えないように思う。

そして、問われる。
なぜできないのか?
なぜできない理由を言わないのか?
なぜ自分のことなのに説明できないのか?

この状況で、こういった質問は「責め」になり得る。当事者は、この理不尽な責めに対して、憤りや哀しさ、悔しさが、入り混じった感情をもつように思う。
それが「いきづらさ」じゃないだろうか。

「いきづらさ」というのは、「いきにくい」のとはちがう。「つらい」のだ。不便で困るのではなく、哀しくつらいおもいをしているのだ。

どういったことが、最も哀しくつらいかって、「その哀しみや辛さをわかってもらえないこと」が何よりもつらいだろう。

結局この社会の基準は「社会になじめる人」の平均値なんだ。
その平均値をもとに、いきづらさを考えても、当人のつらさ哀しさをわかってあげることはできないだろう。

いきづらさは、まず社会になじめないことが前提なのだから、この社会のしくみや基準には当てはまらないのだ。対処的な方法も意味はあるけれど、それでいきづらさの本質に共感できるとは思えない。

この非常におおきな矛盾に気がついてほしいと思う。気がつく、ということが、大きな一歩なのだ。

ぼくの記事がお役に立ちましたら、お賽銭を投げ込んでいただけると嬉しいです。 それを眺めてなんどもニヤニヤすると思います。