李琴峰「五つ数えれば三日月が」エアポケットから溢れる虹

中学の頃からの私の古い友人が結婚する。いつも二人で美術の話をして、お互いの不幸をなげきあい、世界を革命する力を求めていた。
結婚、と聞いても実感はなかった。相手の男の話は聞いてたけど、あったことも見たこともなかった。彼女は、結婚する程度で変わるような人ではないけど、その上に知らない文化が積もっていくのかと思うと少し寂しかった。
彼女の結婚は、彼女にとってまた一つの闘争だし、世界を革命する手段なのだと私は思った。私はパンセクシャルではあるけど、その関係は友情だけで繋がる関係で、私は心から応援したいとおもった。ただ、今現状の社会では結婚とは無縁にすぎる私にとって、それhsはあまりに遠かった。
海を隔てた隣の国では、同性婚がある程度成立した。日本の右隣も左隣も、それは変わらない。
結婚、家制度、戸籍、全ては痛みを伴いあまりに近くゆえに遠かった。
ただ時間に置き去りにされるような感覚だけが私に揺蕩った。

李琴峰の「五つ数えれば三日月が」を読んだのはそんな時だった。女性同士の主題をメインにプロとして文芸創作を続ける作者は、日本の文壇には珍しい書き手で、初期からずっと作品を追い続けている。
新作も当然のように手にとった。

物語は、台湾から日本に渡ってきた会社員の「私」と日本から台湾に渡り台湾で異性婚をした「実桜」が、日本で5年ぶりに再開する短い時間がメインとなる。
「私」は彼女と再会しながら、その巻き戻されたような時間の中で、様々な事を回想する。彼女との出会い、台湾での記憶、日本で働く記憶。それぞれにそれぞれの主題があり、短編でありながら掌編集のようにも読める形式は、作者が得意とする形式だ。

再会の舞台は池袋の中華料理店で、メニューの多くは中国語で表記されている。台湾で暮らしている「実桜」は「私」よりもメニューの理解が深く 、異国で暮らす、異国でアイデンティティを受け入れるといことの、途方も無いずれが細々とした描写の中に描きこまれる。
そして「私」にとってそれは、異性愛規範の中で生きる同性愛者のズレでもある。
彼女の台湾での幼少期の記憶は、それをあらわにする。同性の友人との口づけと、家族から拒絶。台湾の土着の宗教や占い文化に細部を彩られたそれは、受け入れと拒絶を同時に示している。骨や寺院といった比喩の中で、擬似的な死を思わせる記憶。
一方で日本では彼女はビジネスパーソンとして働き、その時間はひたすら流れ続ける。「いつ結婚?」「日本人より日本人」と言った幻想を彼女は投げ続けられ、その中でひたすらに削られていく。

だから「私」の「実桜」との時間はその二つの間で宙吊りされた停滞したエアポケットのような時間として表される。日本と台湾、過去と現在、異性愛と同性愛。彼女たちがそれぞれの時間の中で繰り広げる政治や社会は宙吊りになり、そこから押し出されたエモーションがフラフラする時間。
「私」はそんな中でこの時間の外にある「実桜」の時間に固執し、結婚や「実桜」の生活を祝えないと感じる。それは「私」が受けた幻想と同じものでは無いか?

この気づきから、視点は「私」を離れて「実桜」のもののなる。おそらく、「私」が「実桜」から聞いて空想した「実桜」の生活。
日本で暮らす台湾人であり、おそらく同性愛者である主人公が、台湾で暮らす日本人であり、異性愛者であろう相手の暮らしを三人称で想像する。
今までの李琴峰作品になかったこの場面は、五つ数えればの白眉で、核になる作品だとかんじた。
他者への想像と自己の経験が混ざり合い、困難や喜びに共感する。

ただ同時にそれは疑問を喚起する。「実桜」は「私」を同じように想像できるのだろうか? あるいは「実桜」は「私」に対してどのくらい興味があり、「私」は「実桜」に対してどこまで話しているのだろう?

その疑問は解かれないまま、二人の時間は過ぎていく。
「私」は繊細な思いを秘めた漢詩を記したカードを渡そうとし、渡せない。
やがて別れの時間が近づき、ふたりは何事もないように別れる。

私たちにとって、私たちのことを、異郷の人に語るのは困難だ。それは途方も無いコストがかかる事だし、そのコストを払う理由も見当たらない。
語らなければ同郷人のふりをして過ごしていられる。瞬きの間に物事が過ぎていく中で、そのコストを払うのは手間だ。そんな事をしていたら、私たちは社会と経済においていかれ、私たちを私たちとして経済的に自立さで養うことはできない(最も私は病気で随分おいていかれたけど)。
けれどいつしかそれは、分離となり、異郷の透明化をもたらしていく。時には手の届く大事な人にさえふりのままで生きねばならない。
それでも私たちは想像し独白し創造し、私を語ることができる。「あなた」に向けて語れなくても、「だれか」に向けて語ることができる。
運命がほほ笑めば、「あなた」が「誰か」になることもある、のだろう。

小説の冒頭、「私」は友人「実桜」と再会することを少し恐れ、近郷情怯という言葉を思い浮かべる(おそらく唐の詩に由来する成語?)。
故郷に近づく時、変化を恐れ、不安になる気持ちを指す──のだという。

「私」にとっての故郷とはなんだったのだろう?「実桜」が渡り渡ってきた台湾のことではない──ような気がする。あるいは、共に過ごしたかつての時間なのか。それとも、「私」が「実桜」に対して抱く感情なのか。

いずれにしてもそれが特定の場所を指すのではないのだろう、と思う。
そのような時間/空間をエアポケットのように作り出し、どこかへ向かうこと。アイデンティティを語り、問い、分かち合うことのできる場所。
それを作り分かち合うためには虹色の旗を旗幟として掲げてパレードをするだけではなく(それももちろん大事だ)、ペンと人が一人いて時間があればいいのかもしれない。いや、そこからこそ、パレードは始まるのだ。私たちは私たちになれるのだ。虹色が溢れ、社会と政治に向き合うのはここからなのだ。きっと。

小説を読んでそう思ったし、これはそのような小説だと、少なくとも私にとってはそうだった。
「あなた」にとってはどうでしょう?

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