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ふと考える、女の同族嫌悪

職場でヒステリーを起こす女って嫌いだ。

極端なことを言うとつい最近までわたしは心の奥底でこう思っていた。あと、仕事の段取りが悪くいつも嵐のようにバタバタしてミスを連発するワーママも嫌い。あと、でかい胸がわかるような服でそこそこにしか働かない正社員の若い女も嫌い。だって、わたしは、男より男らしく働いて会社に貢献しているから。

こうやって文字にすると恐ろしく攻撃的で貧しく、悲しい考え方だなあと思う。当時だって流石に顔には出さなかったけど、無人に近いオフィスでキーボードを叩く深夜0時には、たいてい、心の奥底でこんな苦い考えを噛み潰していた。

Photo:『サプリ』 
引用元:あの名作漫画『サプリ』の新作が公開!ソーシャルトレンドニュース
※てか『サプリ』のスピンオフ、こんな新作も出てたんか!!知らんかった

「女として」は失格だと、子供の頃から常に自分の女性性に苦々しい思いを抱いてきたわたしは、会社組織という男中心の社会に組み入れられて落ち着いたし、その中で「男より働く」「男よりできる」という自分の存在意義を見出した。「女として」男たちの称賛を浴び、「女として」充実した人生を歩んでいく同輩たちと自分を比べるのは自傷行為でしかなかった。彼女たちに嫉妬しなくて済むように、わたしは慎重を期して、自分に色々な自己暗示をかけ、彼女たちを見下すことに成功した。「女だからって甘えんなよな、わたしは男よりやれるもん」

男の中にいることが多かったわたしは、「女」という存在が、職場で男たちにどう見られているのか、観察する機会が多かった。わたしの前で彼らは遠慮なく女の批評をした。外見も仕事ぶりも。そして、どんなにフラットでオープンマインドな男であろうと、一度は思ったことがあるようだった。「だから女は。」

だって、わたしたち「バリキャリ」女が大好きな漫画「サプリ」にだってあるじゃない。

女の人って謝らないでしょ 仕事で 僕の偏見だけど
うまく回ってるうちは調子よくても いったんミスが生じると
急に”私”が出てきて被害者になったり レスポンス遅くなったり
仕切る立場の人にそれやられると辛いんだよ
実際藤井さんみたいに丸謝りして場を収めるのめずらしいよ
仕事の真価ってミスした時に出るものだからさ (『サプリ』4巻 高田)

※藤井ミナミが女衒的上司のせいで超トラブル現場に巻き込まれて全員に頭を下げる場面の話です。彼女は全員に丸謝りして場を収めたことで、男のクリエイター高田に評価されると言う場面です。

そう、こんな風に例えば女がミスをしたとき。または今風にいうと「インシデント」が起きたとき。オフィシャルの場であっても、瞬間風速で感情が表に出やすいのは確かに女だと思う。

論理で議論をしている場で、多くの人が関わっている段取り命のプロジェクトで「でもそれって、こうですよね」と感情やノーロジックの正論で来る。男はそれを陰で「だから女は」と言う。

それを聞くときのわたしの気分はと言えば。正直、爽快だった。

だってわたしは、論理悪魔みたいな男たちに囲まれて、ロジックロジック構造構造言われて、死ぬ気で勉強して追いついてきたんだもの。この地位は、男たちに負けないように努力して築いたのだ。だからこそ男たちはわたしの前で気安く「だから女は」と言ったりする。それはわたしにとってはちょっとした勲章だった。

しかし、今度は、30歳に差し掛かる頃。

同じような、男による女の批評の場面に出くわすと、爽快さは消えて、苦々しい思いをするようになった。今度はどう思ったかって、歯に衣着せぬに言えば「そう言う女がいるから女が出世しづらいんだ」だ。ああやって、ヒステリー起こす女がいるから、男たちはいつまでも「だから女は」って言う。わたしやわたしのように髪を振り乱して働いてきた女たちは、男たちと同じ言語で語れるように努力してきたのに、それでも出世の機会が少ない。それはやっぱり女だから、女は感情だから、って思われてるからだ。男たちを黙らせるには、私たちはいつまでも女のコードで戦ってちゃダメなのに。女が女の足を引っ張っている。

#Metooを批判したり 、距離を置いたりした成功した女性 the Morning Showのジェニファーアニストンのような女性の、反応というか。

あのとき、「男のセクハラなんてわたしたちは乗り越えてきたのよ」って思った年長の女性たちはかなり多くいたはずだ。トランプ支持の女性たちも。

セクハラとヒステリーではわたし的にはレベルが違うと思いたいが、わたしは、「Metooを批判した女性たちの気持ちなんて全然理解できない!なんて不寛容なの!!」と言い切れるほどクリーンではない。

まあ、個人的には、当時のことをよくよく振り返ればわたしはただ焦っていただけだったし、実際に感情的になることで上司に手を焼かせていたし、自分の姿がよく見えずに他人を心の中で攻撃していただけだな、とわかるんだけど。当時は「同族嫌悪」のループをぐるぐるしていた。

それが変わったのは、いろいろあったかもしれないけど、やっぱり佐久間裕美子さんの「My Little New York Times」を読んでからだと思う。シスターフッドについて考えるようになった。若い女性の後輩たちが大量に入ってきて、シンプルに「この子たちに同じ苦労はさせたくない」老婆心を抱くようになった。

それに自分の女性性に向き合えるようになった。女として魅力的じゃない、と言うことがいつも、魅力的な女性へのひしゃげた思いに向かっていた。それが同族嫌悪の片棒を担いでいたと思う。ものすごく端折って言うと、30歳超えて、婚活することになって(それはまた別のお話)、わかりやすく男の好みに迎合する服装に変えることに決めて、そうしたらわかりやすくモテて、モテたのに全然楽しくなくて、「こんなわかりやすい女性性で動く男なんてどうでもいいんだった」と気づけたことで、わたしは、自分の女性性に対する何回も折れ曲がった屈折を、ある程度整理することができた。結局、いまだに何を着ればいいかはあんまりわからないんだけど(本質的にファッションセンスがない)、社会から求められる女性性なんて、あんなにコンプレックスに感じてきたけど、わたしにとって全然重要じゃないって思えたのは大きかった。

だから胸の大きい女の子も、短いスカートの女の子も、みんな、自分らしくあれるなら一様に美しいと思えるようになった。昔はあんなに怖かったのに、嫉妬や羨望でまっすぐ見られなかったのに。

久々にこの同族嫌悪の話を思い出したのは、最近の佐久間さんの投稿を読んで、「感情を抑えられない女性」像に出くわしたからだ。

ここで佐久間さんは、女性だからどうこうと言うことは全然取りざたされていなくって、アンガーマネジメントとか、メタ認知とか、自意識の克服と言うテーマで書かれている。(そしてその点でもすごーーく共感するし、その点でもたくさん思うところがあった)

でも、つい思い出した。怒れる女たち、への、女たちの複雑な思いを。

この話でもう一つ引き合いに出したいのは、映画「キャプテンマーベル」だよね。「女はすぐ感情的になる」とか「女は笑ってろ」へのカウンターパンチ。感情的で何が悪いのよ。そこがわたしたちの美しさじゃない。って言うのは、上述したような若くて視野狭窄なわたしには到達できない視点だった。

80年代生まれのわたし一人の個人的な人生とっても、「女性」と言う性への向き合い方はぐんぐん変わっている。ジェンダー自体も多様化している。今のわたしは、同族嫌悪とか、結構昔のことだなーと懐かしい思いさえしている。この間、「専業主婦の年金」をめぐっての働く女の発言報道で、「女同士を対立させようとすんなぼけ」って言う流れも見た。あれはすごく、心強かった。わたしも変われたんじゃないかって思えたし、社会全体の流れも変わってきてるんじゃないかって思えた。

なんだか、そんなようなことをつらつらと思ったのであった。

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