エナメルパンプス
玄関で絡み合った拍子に、置いてあったエナメルパンプスを蹴飛ばした。マルイの地下で売ってそうな安っぽい、ローヒールのエナメルパンプス。『まりな』のものだろう。まず名前が阿保そうだし、履いている靴もダサい。ちっ。よろめいて、そのダサい靴を踏みつけた拍子に、わたしは仲田に抱き上げられた。
PHOTO : http://highheelsfashion.info/category/high-heels/
「仲田いまどこ住んでんの」
伊藤が最後の餃子を大皿から口に運びながら訊いた。
「中野」
「へえ。まりちゃんは?」
「いるよ、いま一緒に住んでる」
「あ、そうなんだ」
ビールを注文し終わった智也が振り返って面白そうに言う。
「まじか。お前が同棲とか。どういう。」
仲田が似合わない真面目な横顔で返す。
「いやまあ、まりちゃん、転勤断って仕事辞めちゃったんだよ。派遣でもやるかな~とか言ってうちにあがりこんで。さすがに俺でも追い出しはしねえよ」
わたしはいつも通りアンニュイにザーサイをつついている。
「え、もうそれクロージングフラグじゃん。結婚に持ち込まれるやつでしょ」
強烈なクロージングに屈して結婚し、すでに離婚寸前の悟が顔をしかめる。
「いや、それが。いま、家出中。別の子のことがバレて」
仲田が笑いながら答えると、伊藤が引き取る。
「安心したわ。仲田のままだな」
わたしはまた詰まらなそうにザーサイを口に運ぶ。
何が詰まらないって、そもそもゼミの腐れ縁の連中と集まること自体、そんなに面白くはないし(いや終始、爆笑はしているが、男どもがくだらなすぎて)、わたしは、卒業して就職してから数回、関係を持った仲田が、まりなとかいう女と同棲を始めたことが明らかに面白くなかった。わかりきったことだったが、改めて、仲田と言うステレオタイプのヤリチンは、少々頭が足りなくても子犬顔で巨乳の女がいいのだということを突きつけられて、「わたし、なんでこいつとやったんだろう」と暗澹たる気分になった。
ゼミ時代から、わたしと仲田はお互いに悪態をついてばかりいた。(記憶ではわたしは常に仲田に「うるせぇ」と言っている。何がうるさかったのかは覚えていない)それでもまあ、なんだかんだとペアできちんと課題はこなしていたから、伊藤がたまに酒席で「おまえら付き合えばいいじゃん」と言ってくることもあった。わたしは真顔で「殺す」と答え、仲田は「病気移すよ」とふざけて笑い転げていた。いま考えても全然面白くない。
が、そんな仲田がわたしにとって気安い存在だったのは確かだった。
就職して、同期の彼氏と別れて、毎日仕事が恐ろしくて、わたしはある夜、同じ街で働く仲田に連絡した。口汚く愚痴を言っても、華麗に聞き流してくれる仲田なら、ラーメンと餃子のセットで黙って付き合ってくれるはずだ。
仲田の嗅覚は本当に天才的だ。その日、わたしに会ってしばらくしてあいつは「今日やれるな」と思ったんだと思う。それでも餃子はすべて平らげて(わたしがおごった)、店を出て自転車を押しながら「小便したい」と言い出した。
「は?店で行っとけよ」
「男の小便はそういうもんじゃないの」
「知らないし」
「おまえんちそこだろ」
「おまえんちもその先だろ」
「いいじゃん、トイレ貸してよ~」
弱っているって怖い。わたしは折れた。っていうか、実際、誰かの体温を感じて眠りたかったんだと記憶している。それで、わたしと仲田はそういうことになった。その後、仲田は半年に1回くらい、「いま近くにいるんだけど」と唐突に連絡してきて、うちに寄るということを繰り返した。
ある真冬の夜中、わたしは突然面倒になった。
「家入れてよ、凍え死ぬ」という奴のメッセージに「どうぞ凍えてくださいwまたは他の優しい女の子を探してくださいw」と返して終わった。以来数年、同窓会で顔を合わせるだけになった。わたしと仲田の間に何かあってもなくても、ゼミの連中はどうせ何も言わないから、二人とも何事もなかった顔でいた。
今日は2年ぶりだった。智也が東京に帰国しているということで久々に集まった。そして仲田が、まりなと同棲していることを知った。
くだ、らな、い。くだらない。
そんなことをくだらないと言い聞かせる自分にも腹が立った。
店を出て、仲田と智也はラーメン屋を探しに行った。
「中華のあとにラーメン行って何が楽しいんだろう」
と伊藤が顔をしかめる。残された我々は新宿駅の喧騒に飲まれて、まもなく散り散りになった。
丸の内線のホーム。わたしのなかで濁った水が鈍い音を立てて渦巻いていた。仲田の同棲なんてどうでもいいのに、引っかかる。仲田がまりなを選ぶという自然の摂理に、わたしは抗いたかった。滝を逆流する鮭のように!そして、産卵してやる。爪痕を残してやる。わたしは衝動に身を任せて仲田にメッセージを送った。
『いまどこ』
『東中野の駅』
『は?ラーメン食うのはやくね』
『笑』
『行くわ』
『は?』
『駅にいてよ』
『なんなんだよw駅前のローソンいるわ』
仲田はローソンの前に突っ立って、炭酸のきつい清涼飲料水を飲んでいた。
「よう」
「よう」
「会いに来たの?」
「うるせぇ」
弱い雨が降り出した。手ぶらのくせに折りたたみ傘を持っている奇妙な仲田が傘をさし、わたしたちは急ぎ足で歩き出した。仲田は厚かましくもわたしの腰に手を回してきた。
「蹴るよ」
「またまた」
マンションの階段で、前を行くわたしの腿に触れ、部屋の扉の前にひとしきり押しつけ、二人で団子になって玄関になだれ込んだ。そしてわたしは、並べて置いてあるピンクとグリーンの、安っぽいエナメルパンプスを蹴飛ばした。
仲田に抱えられて部屋に運ばれるわたしの視界に、脱ぎ捨てた自分の8㎝ヒールが目に入った。誰を笑うでもなく嘲笑した。くそださいローヒールのエナメルパンプスと、毎年新調する決まったブランドのスエードのハイヒールのコントラストが、単純に面白かった。わたしはあんなダサい靴履かないな。どういう神経してたらあんな靴履けるんだろう。
ベッドに降ろされる頃には「もういらないな」と思った。
重なってくる仲田を押し返してわたしは言った、「帰るわ」。
「は?なんで?え?泊まっていけよ。彼女帰ってこないよ」
「いいって、帰る」
スカートを直して、腕を引っ張る仲田を振り払って、わたしは玄関で、自分のハイヒールに足を押し込んだ。
「電車もうねえよ」
「タクシー拾うわ」
「なんなんだよ~。またおまえんち行くね」
わたしは答えずに扉を後ろ手で閉めた。
雨はあがっていた。
大通りで必要以上に右腕をピンと挙げる。濡れたアスファルトを滑って柔らかく停車したそのタクシーに、踵を3回鳴らして颯爽と乗り込み、わたしは行き先を告げた。帰るよドロシー。あんなダサい靴じゃ、好きな場所には行けない。わたしはもっと遠くまで行きたい。高いヒールを履いて全速力で走り続けるのだ。窓ガラスに映る自分の顔を眺めて思わずニヤついた。危なかった。血迷った。問題ない。何も問題ない。この道をゆくべし。
じゃあな、まりな。仲田と幸せになれよ。
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