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「メンタリストDaiGoさんの炎上の話題」から客観視を考えてみよう!

どうも、ぎんじろうです。久々に文章書きました!

さて、いきなりトレンドっぽい話になりますが、メンタリストDaiGoさんが「ホームレスとか自分に関係無い人間の命は軽い云々」の発言で炎上してるみたいなんですが、知っていますか?

最終的に・・

「コレは差別的発言だ!」

というところまで発展しました。


これは使えそうなネタだな!と思って、DaiGoさんの動画のコメント欄を見てみると非常に感情的な言葉が目立ちます。

「この発言は絶対にゆるされない!謝罪しろ!」
「DaiGoさん、そんな人だと思ってなかった!悲しいです」
「Daigoがそうかは知らないけどイエスマンばかり周りにいるプチ成功者は傲慢な人間性が多い印象。ちゃんとダメって言ってくれる弟がいてくれてよかったね。」
「DaiGoという人間の根底にある差別思想は1日2日で治すのは難しいと思います。今まで信じていたのに、残念です。」等々

自称、人権を尊重している人達が、ここぞとばかりに公に他人を攻撃している姿や、その数の多さに恐れおののいた。という意味では、ぼくも感情的になりました。

よくあることですが、社会悪だとみなされた行為や人になら、いくらでも攻撃していいぞ!という暗黙の許可が、また出たわけです。本当に人間の恐ろしさはどんな時代になっても変わらないんだなぁ、と素朴に思います。


ま、ぼくの意見はどうでもいいんですが、このように、ぼく達は赤の他人と赤の他人が何かもめてる姿を見るだけでも簡単に感情的になります。

さて、ここから「パチンコをやめる話」につなげていきます。
以前、禁パチするためには「決意」するんじゃなくて、感情に飲まれず、自分を「客観的に観察しよう」、という話をどっかのYoutubeの動画内でしました。

このDaiGoさんの話題、結構多くの人が感情に飲まれ、解釈が拡大し、論点が拡散し、大混乱してますので、カオスの中で「自分を客観視する」という題材にぴったりだと思いました。

今回は、このDaiGoさんの話題を通じて「感情に飲まれない練習」や、「自分を客観的に見るための練習」をしてみませんか?というお話。

本気で「自分をコントロールしたい!」「パチンコ屋に行ってしまう自分を少しでも変えたい」という人は読み進めていただけるとうれしいです。


■客観的になれない原因
人が客観的になれなくなる原因は大きく分けて2つあります。

・客観と主観を分ける訓練をしてない
・感情にのまれている

普通の日本人であれば「主観と客観を切り分ける訓練」は基本していません。おそらく一部の学校の、一部の学部でしか学ばないでしょう。当然、僕も学校に通っていた時はおろか、30代になるまで全くしていなかったし、今も訓練中です。

感情に飲まれないための練習としては、動画内では「瞑想」をオススメしましたが、今回は瞑想はいったんおいておいて・・

「主観と客観」に焦点をあてます。


■実はむずかしい主観と客観の区別

DaiGoさんの話に戻ってみましょう。謝罪動画のコメント欄をみてみると、否定する人にしろ、養護する人にしろ、「DaiGoの考えは良いのか?悪いのか?」「差別なのか?そうでないのか?」「この謝罪は良いのか?悪いのか?」という話をしています。


 「善悪」


という基準を論じている人が多かったです。みた限りでは95%くらいの人は善悪の話をしていました。

「善悪」というのは客観でしょうか?主観でしょうか?考えてみてください。








はい。当然、主観的なものです。善悪はひとそれぞれの価値判断によって決まります。絶対的な悪も、絶対的な善も存在しません。(ある種の宗教の中には存在します)

人間の価値判断を作り出すのは、宗教観であったり、周りの人の影響であったり、その時代の一般常識であったり、まぁ、さまざまですが、一番大きな影響を与えるのは

「その時代の一般常識」

だと思っています。

例えば、今回の件でDaiGoさんの弟、松丸亮吾さんが、こう発言していたそうです。(ヤフーニュースから持ってきただけなので本当にこう言ったかは知りません)

”人の命を軽く見る発言だけはさすがにダメです。
それだけは絶対に許されない。
今回ばかりは兄がおかしい。ごめんね”


この言葉がこの方の本心なのかどうかは確かめる術はありませんが、ぱっとみ、とても常識のあるいい発言であり、いい人間であると評価されるでしょう。

ですが、注意してほしいのは、常識がある人間にしろ、非常識な人間にしろ、「善悪の話をするときはあくまで主観の話をしている」という所です。

ここが、とてつもなく大きなポイントになります。


■絶対に差別は許さん!!

まず、「差別」は良いことだと思いますか?悪いことだと思いますか?

ひと昔前であれば、差別は社会にとって必要なものとして「一般常識」として成立していました。

ですが、今の時代であれば、基本的に「悪いことである」と、多くの人が認識しているでしょう。


次に、差別は「絶対」に悪い事だと思いますか?

「絶対にだめだ!」

と思う人も少なからずいるでしょうが、「主観と客観を切り分ける」という視点から見ると、「絶対」という気持ちは足かせになっていきます。

「絶対」という言葉自体は日常的に使いますから、言葉として便宜上使うことはあるでしょうが、自分の心の中で「絶対」だと思っているならば、そこが今回の話で一番重要なポイントです!!!

自分の「絶対」をメモをするなりして忘れないようにしてみてください。


■「絶対」という錯覚

「絶対に人をコロしてはいけない」
「絶対に差別をしてはいけない」
「絶対に家族は大事にしないといけない」等

「絶対的な価値観」が人の心のなかに設定されると、人はそれを「客観的」だと誤解します。ゆえに「自分は客観的な事実をベースにして自分の考えを話している」と、さらなる誤解をします。そして心はどんどん凝り固まっていきます。

ぼくにはキリスト教徒の敬虔な信者の友達がいるんですが、彼はイエス・キリストを絶対的な価値観だと思っています。ですから、彼にとって神の存在は客観的な事実なんです。

「神様はこう言ってらっしゃるから、これはダメなんだ。これは良いことなんだ!」

彼はよくそう言っていました。


一緒に住んでいたこともあったので、お互いの「絶対」を戦わせて、毎日のように討論(ほぼケンカの時もあったw)をして考えを深めあっていた時期もあります(笑)

わかりやすいのでキリスト教徒の友人の話を出しましたが、これは宗教を信じる人に特有のことではありません。

ぼくらは多からず、少なからず「一般常識」というものに対して信仰心を持っています。つまり、子供の頃から何度も刷り込まれた価値観に対して無意識に「絶対」だと思ってるということです。


無意識領域を図式するとこんな感じ・・・

親等:「人をコロしてはダメよ!絶対」

人をコロしてはいけないんだ!

これは絶対だ!

これは普遍的な真理だ!

客観的な事実だ

ゆえにこれは自分の主義主張、主観ではない。もうすでに決まってるものだ

つまるところ信仰心


当然、ぼくもこうゆう風に考えることは多々ありますし、無意識に絶対視しているものなので、なかなか自力で見つけるのは大変です。

ぜひ、自分の絶対化ポイントを見つけたら、それを深堀りしてみてください。

そこから客観と主観を切り分ける一歩が始まったります。


■まとめると・・

あくまで今回の話は客観的でないとダメです!主観はくそです!という話ではありません。なんなら人間はほぼ主観の世界で生きています。

ですから、「主観と客観を切り分ける意識だけは、なんとか持っていこう」という妥協っぽい話なんです。

そして、こうした思考訓練を日々やっていく中で「自分を客観視」する精度を上げていってください。

禁パチに限らず、人生のあらゆる場面で客観視は役立つはずです!


ぎんじろう

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