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自分を語る

有りがちな表現ですが、25年前の今日僕は生まれました。
ここ数カ月で僕の事を紹介してくれた人達や場所があって、
とても有難い事だなぁと思いながら、それでもどこかで自分の言葉で自分を語っておきたいなとも、感じるようになりました。
『誕生日はその人が主役』なんて有りがちな表現に甘えさせて頂いて、
この期に自己紹介記事でも残しておこうと思います。
まずは触りから。

会って話せば伝わる事

僕を知らない人の為にまずは名前を。G!on(ぎおん)と言います。
僕の絵を見た人の心に『!』が残るようにと、この名前を付けました。

実現したい夢の為に、今年の二月頃からあんじゅ先生のアシスタントとして関らせて貰いながら、漫画を描いています。
漫画だけではなくて、色々な感情や、思考を残して忘れない為の絵を描く事も仕事にしています。ロゴやヘッダーの制作をする事も、そういった活動の一つです。
趣味として、石を積んだり、友人とpodcastでラジオを放送しています。

今の自分について、羅列してみました。
どうでしょう?こんな言葉じゃ僕の事、結局分かんないんじゃないかなって思うんです。僕が読者で、誰かが書いたこんな文章を読んだら、
『何をしている人間かじゃなくて、どんな人間なのかが知りたくて読んだんだけどなぁ…』
って思う気がします。

触りの話はおしまい。
一筋の文脈では僕の事を伝えるなんてちっとも出来ないと思うから、僕の触れたもの感じた事の一つ一つを、キーワード毎に話そうと思います。
何かについて一緒に触れた時や、何かへの考えを語るような瞬間に、人間の中味は一番よく見えると思うので。
全てでは無くても、なるべく伝えられるように。

本章

『思い出』

僕は小さいころの思い出が、そんなに好きじゃありません。
とにかく臆病だった僕は、夜になるとすぐ不安になりました。
…。
死んだらどうなっちゃうんだろう。
おばけって本当にいたらどうしよう。
僕に見えないところで、世界は僕を監視しているんじゃないかな。
僕を愛していように見える人達だって、本当はそう振舞ってるだけなんじゃないかな。
どうして僕は醜く生まれたんだろう。兄はもっときれいに生まれたのに。
教室に入った蜂を叩いて殺せる人は勇敢だと見られても、無事に帰そうとしてかばう人が冷ややかに見られるのは何でだろう。
いじめをした人間が、反省していじめていた相手と仲良くすると、友達が減るのは何でだろう。
大人たちの教える『正しい』の中に、貫くほど苦しまなければならない事があるのは何でだろう。
理屈には納得しても、自分の命に感謝しきれないし、両親に心から感謝しきれないのは何でだろう。
天国と地獄があるなら、自分はもうきっと地獄に行くことが決まってるだろうに、どうしろって言うんだろう。
夢と言えるほどの憧れもなく、一般にも溶け込めない僕は、きっと失敗作なんだろうな。
どうして僕の思いは人に伝わらないんだろう。伝わっても、その思いが僕にとってどのくらい大事かは何で伝わらないんだろう。
どうして、分かってくれないんだろう。
どうして、伝えられないんだろう。
…………。

小学校くらいにはそんな事を、言葉にはできないけど考えていました。
本当はもっとたくさんの事を考えていたような気がします。
不安はそのうち、疑問になって…一部は諦めになりました。
いつも悲観していた訳でもないし、嬉しかった思い出も沢山あるんですが、
それでも、『思い出』という言葉で一番最初に浮かぶのはそんな記憶です。
相手の気持ちを信じれない事も、自分の気持ちが分からなくなるような事がある事も、きっと自分が嘘をついて生きてきたからだと思います。

嘘をついた僕は、本当の事が何なのかも分からなくなってしまいました。
じゃあ、自分の気持ちを知る為には?自分の気持ちを伝えるためには?
相手の気持ちを、知るためには?

僕の大事なモノって、何だろう?
そう思ったのは、僕にとって一番大きな壁で、一番大事な問題だよなって、今でも思ってます。

『中学』

小学生の頃からあれやこれや悩んできた僕は、中学の頃には自分の為に努力するという事がとても浅ましく感じるようになっていました。
好きにもなれない自分の為なんかに生きるなんて、薄情な奴だよなって。
生きているのに理由が欲しくて、人の為だって言える理由が欲しくて、
人の為になる行動ってなんだろうってずっと考えていました。
迷惑をかけずに生きられないし、このままじゃ迷惑をかけてまで生きる意味がないし、だから生きてて良い意味をつくらなきゃって。
その頃の年らしいって言うのか、単純な悪役、怪人とか、魔王とかがいれば、自分もあんまり考えなくても人の役に立てるのにって思ったりもしたっけなぁ。この頃には自分の為にする勉強とかも意味が分からなくなってた気がします。
数学の事は好きだったけど、まじめにやるのと好きなのはなんか違うなって思って…それでも、ただめんどくさくてそれっぽい事言ってるやつと一緒になんかなってたまるかって思ってました。
そういう事思う度に、自分が周りの事好きになる事も共感する事も出来ないんだなって、悲しくなって。
好きになって、その人に共感できるなら、ただその思いのまま行動すればいいのかなって羨ましく思えました。もう諦めてしまいたくなって。でも、自分の意味が欲しくて、理屈にもっとすがった気がします。

人の役に立たなきゃ、人の役に立たなきゃ。
自分の中で、ひたすらに『滅私奉公』と『身分相応』を唱えていた気がします。学校のやってる事が正しいって思わなかったら、先生に文句言いに行ってたし、友人のやってる事が正しく無いって思ったら、浮いても反抗してた気がします。そんなことしてたから、より一層人に共感できない人間になってたのかなぁとも、思うんですが。
ともあれ、そんな事を考えながら一番許せなかったのは自分でした。
そんな御大層な事言って頑張りきれないんですもん。ずるい事するし、言い訳するんですもん。糞だなぁって、思ってました。今でも、自分糞だなぁって思う事はあるんですが(笑)

『恋』

いびつな心を持ってた僕にも、好きになってくれた子がいたし、好きになった子がいました。

七人八脚だったかな。中学の運動会の時にそんなのがあって、男女の境目をお互い誰にするかなんて事で、じゃんけんをする事になりました。僕は、じゃんけんにすら渋ってる友人たちに持論を振りかざしたのを覚えています。
『一番やっちゃいけないのは相手の女の子が嫌だなぁって思うようなやつを隣にすることじゃないかな。相手が嫌そうじゃなきゃ、その男だって悲しまなくて良いんだし。だから、女子に人気がありそうなお前かお前が行くべきだと思う!』って。
きょとんとした眼で見られました。全員に。
今思えばその選択肢から除外したもう一人に申し訳ない…。
微妙な空気の後、結局普通にじゃんけんする事になって、僕に決定しました。とんだ過ちを犯したものだと思いましたが、その後の僕は、隣になった女の子が自分の事を好きだったという事を知りました。

今思えば、あの時の周りはグルだったのかもなと思ったりします。
あの子はクラスでも上位のカーストの子だったから、そんな事があってもおかしくないのかもなって。でもその時の僕といえば、
きっとその子が僕を好きでいるように見えるのも僕の勘違いか仕組まれた罠であろうと信じてました。そんでもって万が一僕の事を本当に好きであれば、それはきっと何かを勘違いした結果だろうから、僕が近くに行けばその瞬間にがっかりして、傷ついて、離れて行ってしまうんだろうなって。
そんなの僕も辛いから、僕から近付いたりは絶対しないぞって、思ったんです。
こんなこと考えてる時点で僕はもうその子の事を好きだったんですけどね。
嫌われたくもないから、今まで徐々に磨かれて来ていた自分じゃない誰かになりきって心にもない事を言うスキルが開花してしまいました。
その子の事を傷つけるような事を言わないように、それなりに喜んでもらえるけど、過度な期待を相手が感じてしまわないような発言を心がけて…。
自分の事を好きになれないから人の役に立ちたかったのに、自分の事を嫌いなせいで、自分の好きになった、自分を好きになってくれた子の事も大事に出来ないなんて現実が嫌で嫌で…。

僕はその後、もうどうにもうんざりして、夜も眠れず一人外をさまようのにも疲れて、週刊少年ジャンプは週に一回しか僕の夜を埋めてくれなくて。だだから、『誰にも知られないまま消えてなくなる』事を目標にしました。僕がいなくなる事で悲しむ人が居たとしても、死んだと知らなければきっと致命的な痛みにはならないだろうし、
これから自分が関る多くの人を悲しませることは防げるよなって、自分を納得させて。

でも、なかなか難しんですよ。学生と言っても社会に生きていれば、人知れず命を絶つなんてのは本当に難しかったです。迷惑をかけず生きる事も、役に立って生きる事も出来なかったから、せめて迷惑にならないように死にたいのに。
真剣に考えて、僕が選んだ方法は、
『沖縄まで自転車で旅して向こうに住もうと思います!』って、
進路相談の時に発表する事でした。もう進路相談が僕だけ沖縄までの進路の相談になってました。元々浮いてたから、変なことして今どこに居るのかも分からないってなれば、死んだことにも気付かず居られるんじゃないかって。それでもし本当に沖縄までついたなら、そこで死にたくなるまで生きてみるかってくらいの希望は持ってたんですが。
考えてみれば、その時からもう10年ほど経ってるんだなって思うと、不思議な気分です。

あれから僕は、どのくらい変わったんだろう。変われたんだろう。変わってしまったんだろう。

『家族』

僕は結婚もしていないし、最愛と呼べるような人がいるわけでもないので、家族と言うと、両親と祖父母と兄。それと今まで飼ってきた亀とウサギと犬かなぁと思います。
ここで金魚やカエルやカブトムシも飼ってたのに家族に入ってこないあたりは、僕の思い入れの問題ですね。彼らには申し訳ないなと思います。
『思い出』の中でも触れましたが、僕は自分の気持ちも他人の気持ちもどう信じていいのか分からないなって感覚を強く持って生きてきました。
だから、家族だからという無条件な愛も、素直に信じられなくて。

一応、名字が『ぎおん』なのもあって、鳥取県内だと他の家と比べてそれなりに知ってる人の多い家な気がしています。実家は自営業で絵を描く仕事をしていて、僕も兄も、小さいころから遊びとして絵を描いていました。
一族にも画家がいたりで、油絵だったり、ロゴデザインを見ながら育ちました。絵を描いて無かった時期と言うのを、思い出せないなってくらいです。

父は映画が好きで、よほど難解なのはそんなに見てなかったと思いますが、
そのおかげで父の見ている映画をよく一緒に見る事が出来ました。金曜ロードショーで流れた映画を、ビデオテープに録画したものがいくつか常に置いてあって、ラベルのところには、映画のタイトルのロゴを似せて書いたものの横に登場するキャラクターの似顔絵が書いてありました。
祖父の部屋にもテレビがあって、そこで寝るときは遅い時間になっても最後まで金曜ロードショーが見てよくて、どうしても見たい映画の時とかに祖父の部屋に泊っていました。朝起きたら、祖父の好きなカップラーメンと、申し訳程度に子どもの栄養バランスに配慮した青汁的なモノが渡される。
そんなどうでもいい思い出ですが、なぜか今も覚えています。
アニメ、漫画、映画、小説、音楽、絵。いろんなものに触れて楽しんできたように思います。そういったモノが好きだという感覚は、きっと兄と一緒な数少ない部分なのだろうなと思います。


『絵』

僕の人生には、ずうっと絵が一緒に居ました。家にはいくつも絵が置いてあって、シム・シメールさんの画集とか、色んな世界観に触れる事が出来ました。
おやじとキャッチボールをした記憶は一回くらいしかちゃんと思い出せないのに、その記憶も楽しい思い出ではなく母に晩御飯が出来た事を伝えられ振り向いたらその瞬間に顔面にボールが直撃したという苦い記憶なのに、
自分の絵を見せてもっとここはこうなっているとか、こう描いた方がかっこよくなるとか添削された記憶の方がよく残ってます。
本当に小さい頃は娯楽の一つとして描いていた絵も、そのうち意味合いが変わって行きました。自分の思いが伝えられなくて、悲観している思考のように人に聞いてもらっても相手が苦しむだけのものや、人に話して適当に扱われるのが怖いもの。自分の中でまとまっていなくて、言葉に出来ない感情。人の掲げた理論に『違う』と感じたのにそれがどう違うのかまとめられず、やっとこさまとめた時には話すタイミングなんてなくなってしまった言葉。

そういう行き場のなくなった言葉を、絵にしていくことが少しずつ増えていきました。絵にしてしまえば、自分ひとりの物のまま、消化する事が出来たし、言葉とは違って、どこかで勝手に掘り起こされて適当に解釈される事は少ないような気がしたから。
僕にとって、一つの精神安定剤だったように感じます。
会社を辞めて、自分のやりたい事や生きたい生き方についてじっくり考えた時、思い返せばずっと続けてこれたのは、人に何を言われたからでもなく上手くなりたいと思い続けられてのは絵だったなって思って。これを武器にして夢に向かっていこうって思いました。
仕事として絵を描くうち、自分の絵のオリジナルな部分は、思い悩んで絵に感情や思考を込め続けてきた事にあると思えて、今はそれを仕事にしています。今、『座右の絵』を描く活動をしているのは、その為です。
この活動がどういう意味を持っているのかは、別の記事で。

『夢』

夢を持つべきだ。なんて事、僕は絶対言わないぞって思ってます。自分が夢を持てない事に苦しんだ人間だから。苦しんだ後、たまたま偶然じっくり考える時間が持てて、その中でこれと決められただけだから。
今の世の中で『夢』と言われる事は、きっと追いかける、追い求められるような事なんじゃないかなって思うんです。子どもの頃それを抱くためには、何かそれに名前が付いていないと難しくて、プロ野球選手だとか、ケーキ屋さんだとか、ユーチューバーとか、知ってる選択肢の中から選ぶ事になるんじゃないかなって。
そこで、大人の顔色を伺いながら可愛げがないと言われないような、かつ夢見がちと思われすぎないような範囲の物を取り敢えず掲げてしまうことだって、きっと沢山あるよなって。
本当は、そんな事じゃなくて良いんだと思うんですよ。二つ年の離れた兄弟を生んで、その子達が色んな芸術に触れながら自分なりに悩んで成長していける場所をつくるだとか、そんな名前のつけづらいものだって、立派な夢だと思うんです。あまり多くの人に会う生活はいやだなぁとか、いじめが起きるような場所には居たくないなぁとか、月に一度は行きたいところに行って旅を満喫したいなぁとか、そういう所をじっくり考えたらきっとその人の大事にしたいものがその中に隠れているんじゃないかなって、そう思うんです。大事なモノを大事にするために、これまでの世界にある仕事や生活スタイルを取り入れるのが良いと思えばそれを取り入れればよくて、今あるものだけじゃ不十分だと感じれば新しい形を創造する方法をなんとか見つけないといけないのかなって思うんです。

ただ、その大事にしたいものが決まったら、その夢にはそれがかなった世界に一緒に居たい人とかが居たり、叶えるために関らないといけない人が居たりして、自分の大事なモノだけ大事にして良いってわけでは無かったりする。それがきっと世の中で生きるって事なんだと思います。
それぞれに大事なモノがあって、自分で明確にそれを理解していなくてもそれを侵害された時にどうしても耐えられなかったりして、つらくなると自分とその周りしか見えなくなって、世界で独りぼっちなような気がしたり、心ない言葉を吐いたりしてしまう時もあると思うけど、人の大事なモノを侵害した時に見て見ぬふりをするようにはなりたくないなぁって思います。
じゃないと、世の中は奪い合いだとか、それっぽいだけで何となく使い勝手のいい言葉を吐いてしまう人間になりはしないかって思うんです。
漠然としてとりとめもなく世を憂うような言葉を吐く時、一番不満に感じているのは本当は自分自身に対してだと思うから。
夢を持たないのが悪いんじゃなくって、大事にしたい事から目をそむける事が悪いんじゃないかって、思ってみてます。
なるべく多くの人が、悩むべき時間を持てた時に、自分の大事なモノって何かなって考えれるようにする事。それを続けながら、多くの人の大事なモノに触れて自分とは違う部分ごと愛してかかわって行けるようになる事。

それが、僕の夢です。その夢をかなえたくて生きている今です。
その空間は少しずつ広げていきたくて、最初の場所を自分の地元につくるつもりです。僕が出会った人に『琴浦町にシェアハウス建てて漫画描きたいんですよ~』って言ってるのは、その為の拠点とシステムを創るって事なんです。分かりづらいでしょうか…。どうでしょう?


『失敗』

僕の人生は失敗続きだったように思います。これまでずーっと。
なので、失敗しない方法はこれ!って人に伝えることはできませんが、失敗したとしても人生は終わるわけじゃないよ!ってことは言えるかなって思ってます。僕より大きな失敗をしたことある人なんて沢山いるだろうし、僕がそんな声を大にして伝えなければならない事だとも思ってないですが。

僕の失敗は緩やかな死のようなものが多くて、だから目に見えづらいんですが、自分を蝕んできました。自分の過ちがふと頭をよぎる度、僕はきっと天国には行けないタイプの人間だろうなっては思うんですが、最近は、そうだとしても、やるべきだと思った事はやろうじゃないかって思ってます。
失敗した人間にしか言えない言葉はあるし、僕という立ち位置で同じ理由の過ちをした人間はいないから、ここからきちんとそれを活かそうって、思うようにしてるんです。
そうでないと、今まで僕の背中をおして、がっかりさせた人達に、申し訳ないよなぁって思うので。

『友達』

人間の距離は、どのくらいの期間関れたかでは決まらないとは思ってます。
ただ、僕みたいな中身の分かりづらい奴って、ある程度話してみないと伝わらないよなとは思っていて、自分の中味の話だけではないにしても、どれだけおざなりにせずにお互いに関れたかだよなぁって思ってます。
僕の友人はよく、他の人たちに一緒に会わせると、『変わってるね』か、『真面目なんだね』と評価を受けるなぁと思ってます。
そんな雰囲気を持っている人達が近くに居やすいのかもしれませんが、そういう人だけが友人になれる訳じゃなくて、お互いの事を知り合おうって、思える人と僕は友人になりやすいのかなって思ってます。
只、仲良くなれる事と一緒に居られる事は近いけども別物だから、好きな人たちが近くに居られるかっていうとそうでもないから一緒に居られない時ってのはできるなぁって。
まぁ、本当にお互い会いたいなら、お互い生きてさえいれば会えるんだよなとは思ってるので、その距離に悲観したりはしていないのですが。

友人が多い方だとは決して思ってはいないのですが、それでも友人に恵まれたなと思っています。僕との立ち位置に左右されず、会ってくれる友人たちが居るおかげだなぁって思います。
ずいぶんあって無い友人たちの事、今頃どうしてるかなぁなんて思ったりもします。

僕が自転車で沖縄に向かった時、あの星座の方向に行けばいいと教えてくれた友人。僕が東京でカバンをなくしてお金が下せなくなった時、事情を話す前から迎えに来てくれた友人。僕が大阪に着いた時、都会の駅に馴れなさ過ぎて出口が分からなくて迷子になってる僕をもっと不安そうに待ってた友人。研修で出会って、お互いその研修の空気がいまいち好きになれなくてそのまま朝まで二人で飲みに出たあの人は友人と呼んでも良いのだろうか。
色んな友人をきっとがっかりさせて、恩も返しきれないままですが、まだ僕は生きてます。今後に期待してやってください。

『努力』

自分が努力をする人間なのか、分からないってずっと思ってました。努力は出来た方が良いなとは思っていて、でもどのくらい出来たらやりきったと言えるのかも、どんな事なら努力をやりきる価値があるのかも分からなくて、自分がぶっ倒れるまで努力出来てたらいいのかなって思ってみたりもしましたが、倒れずやり続けるための努力なんてのもあるんだなぁと思ってみたりして。

今はこう思うようにしてます。努力をする価値があるかなんてのは自分の選択で、どのくらい努力出来てるかは周りが勝手に決めるものなのかなって。
本当にやりたいなって思った事なら、結果も努力も足りなければ悔しいって思い続けられるし、焦燥感は勝手に背中を押してくれるものかなって。
大事なのはやっぱり、何に努力するかを選ぶ事だと思います。
自分を納得させるための良いわけだとか、なんとなく良さそうだからみたいな思考に左右されないで、きちんと選ぶって事なんだろうなって。そうして選べたなら、めんどくさがりながら、失敗もしながら、それでも努力し続ける事が出来るなって思うので。

『仕事』

自分のやりたい仕事なんて、きっと無いんだろうなって思いながら、給料もらって一人の時間作れたらそれで良いよって気持ちで以前の会社に入りました。なので、あの時僕が履歴書に描いた事は思いっきり嘘っぱちでした。

嘘をついたまま就職した僕は、
以前勤めていた会社を辞めた時、本当に限界だなって思って、
ただただ辞める為だけに会社を辞めました。ここからは愚痴っぽいものになるかもしれませんが、甘えさせてください。

僕の居た工場、自社内の残業時間の比較でも、他の工場の4倍くらいの残業時間を叩きだす工場で、(実際はもっとやってたけど労働基準超してたし書ける時間だけ書いてあった)実際に利益も他の工場以上に出してはいるんですが、他の工場の事を馬鹿にする人も多く、工場内でもあの部署のやつだから…みたいな話が一日に何度も聞こえて来るような場所でした。
そんな工場でもとりわけ、『あそこにだけは配属になりたくない』と言われるような部署に入り、同じ交代班の先輩に、『今のこの班は地獄だ』としょっぱなから言われ、初めての場内パトロールで真夏に休憩なしで四時間歩きまわらされ、それを支持したおじいちゃんは日陰からぼんやりと僕を眺めながらたまにうたた寝をし。別のおじさんには機械の異常がないかきちんと見ろと言われるも、そこらじゅう教習所ではダメと言われている状態なのにどれを異常と受け止めて良いかも分からず、『これは異常じゃないかと思うのですが』と伝えに行ったら『何なん。そんなん言って褒めて欲しいん?』って言われたり…。
誰がお前なんぞに褒めて欲しいと思うものかぁあぁああー!!!
って思いながら、それでも僕の一年前に入社した先輩ともう一人、僕の直属の上司の事は良い人たちだなって思ってたから、その人達が余計な苦労をしないで良いように続けていました。
そのうちそれなりに楽しんでやれる仕事も出来てきて、他の部署の人とも仲良くなっていくにつれて、そういった嫌がらせもしづらくなったのか減っていって、それなりに乗り越えられたのかなと思うようになりました。
その後もいろいろ大変なことはあったけど、大体は働いてればそのくらいの事もあるかっていうくらいの規模だったから何とかなったんですが、ターニングポイントになったのは、僕の交代班の移動でした。
僕が班を移動になった理由は、『向かう先の上司が優秀だと思わなかった後輩を悉く潰しちゃうから、誰を向かわせて良いかわからんし、取り敢えず行ってくれない?』といった感じでした。同期や好きな先輩が困ったりがっかりしたりしないように強がってきたのがすっかり裏目に出て、仕事を一緒にしていたかった上司の元を抜け、今知っている言葉でいえばクラッシャー上司でしょうか、そんな方の元へ。
配属してすぐの段階から笑顔の出るような場面はほとんどなく、たまに笑い声が聞こえるときはもっと上の上司とその方が話している時か、誰かの事を小馬鹿にしている時でした。
全員が見る事になる日報にすら名指しで気にくわない人のミスをわざわざ記載し、それを自分がどのように適切に対処したのかを付け加え、さらにこれで何度めのミスだとか付け加え、個人宛のメールでさらに罵詈雑言を浴びせる様な姿を見て、どうやって尊敬しろっていうのか分からず。
いくら仕事がきちんと出来ていても、こんな人間を残して給料を払っている企業に組織としてどれほどの価値があるのかと憤り、
それでも自分にそれをどうする事も出来ず、出来たのは自分の好きな元上司を馬鹿にされた時に口答えをするくらいの事でした。
それ以降仕事に対する指示も貰えないようになっていき、たまに人に見えないところで待ち構えられ10分程度延々怒られ、それ以外の時間は何も返事を貰えないようになり、始業ミーティングに参加させて貰えないようになって、休憩を取りに現場から戻るのも嫌になって………。
………………………………………………。
僕が朝起きて会社の支度をした後、会社に向かう為に立ちあがる事が出来なった頃に、僕は元の班に戻る事になりました。
それでも、僕宛の嫌がらせメールも、僕へのアラ探しも終わらなくて、僕のミスも増えてしまって、何度も何度も『さっさと仕事辞めてしまえ』と言われる事と、『応援してるから頑張って続けろ』という声の間で悩んで、自分が居る事で周りの苦労が増えるなら、僕は何のためにここに居るんだろうって思うようになりました。

そんな時、資格試験を受ける日が来ました。講習を寝たって満点近い点がとれる自信があるくらいのものだったのですが、当日の朝目が覚めたら39度近い熱が出ていました。休む連絡をすればいいのに、僕の為にもう一日他の人に代わりに仕事をしてもらう事になるってなったら何ときゃしなきゃって思って、何とか運転して会場に向かったのですが、その日はあいにくの渋滞で、他の人達は試験開始の予定時間が十分遅らせて貰った事で何とかたどり着いたのですが、僕は15分遅れたせいで試験に落ちてしまいました。

ふらふらしながら寮まで戻って、会社にいきさつを伝えて、翌日には熱も下がったので会社に行ったのですが。
その時に今まで励ましてくれてた、自分の交代班のチーフだった方に笑顔でこう言われました。

『仮病はもう治ったのか?』って。

色んな思考を置き去りにして、辞めようって、決めました。このままじゃ体が死ぬ前に心が死んでしまうなって思いました。
今までこの人が僕を助けてくれてたのは、立ち位置としてやるべきだったからであって、僕の事を信頼してたからでは無かったんだなって思ってしまいました。
何より一番反吐が出そうだったのは、僕が会社を辞める時、
『あれだけたくさんつらい思いをしたんだからどこに行ったってマシなはずだ』って言われた事と『このままじゃいけないって分かってるけどまだ会社に居る人間には荷が重いから労基に相談に行ってくれないか』って言われたことでした。

ただの愚痴をこんなに書きこませて頂きました。すみません。
長くなってしまってますが、それでももう少しだけ話させて下さい。
僕にはそんな仕事もありましたが、そんな仕事だけじゃなかったです。
会社を辞めてから、仕事って何なんだろうって何カ月も考えて、自分の中できちんと整理をつけて今仕事をしています。
給料が貰えるわけでもないし、威張れるほど稼いでは無いし、というか本当に毎月カツカツですけど、いつも来月なんとかなるっけ?って思いながら生きてるけど。両親も心配させ続けてるだろうし、友人の中にも心配している人が居るんだろうけど。
それでも、辞めるかって全然ならないんですよね。『続けられるかなぁ?』じゃなくて『続けるのにどうしたらいいかな?』って思うんです。
それに、履歴書書いた訳じゃないですが、嘘じゃない、本当の事が言えてるなって、思うんです。

『兄』

兄について話そうとすると、全然似てないって事が、一番先に口をついて出てきます。兄は、僕より背が低い。僕より整った顔をしている。僕よりのヤンチャな中学高校生活を送った。兄はもてた。兄は自分の好きな事を自分で選んでた。兄は親の前で、伝えるべきわがままをちゃんと伝えていた。
兄にはさんざんいじめられました。戦おうとする意志も持たない、他人にすがりつく僕が、見ていて腹が立ったのだと思う。何度も血が出たし、何度も泣かされました。

ボールペンでこっそり描いていた漫画を、発見されて家から学校に持ち込まれて、人前で笑われた時の事。プラスチック定規がバラバラになるまで僕に叩きつけた事。口の中にシャンプー流し込まれたり、ベルトのバックルを先にして鞭のように振り回してきた事。僕の右手の甲には黒い点があって、その点は兄に対して不満をこぼしていた僕の手の甲に、うるさいからと鉛筆を突き刺した時に出来た傷跡だって事もきっとこれからも忘れません。
とはいえ、その頃の僕だっていじめられる度に両親にちくって、両親からの信頼の下がった兄に、自分のやった罪もなすりつけたりしたんで、お互いひどい奴だっただけですが。

ともかく、僕が沖縄に行くと自転車をこいで飛び出した時に、
どうして止めなかったんだと親に叫び、落ち込んで元気をなくしてしまったのは兄でした。兄は、伝えるべきわがままをちゃんと伝えるやつでした。
島根県の端の方まで行ってた僕を、わざわざ探しに来た両親からそう聞かされた時、戻ろうって思いました。

僕が会社を退職した時、その時の僕を見て、焦って答えを出さず、自分が死ぬまでについてきちんと考えろと言ってくれたのも兄でした。

連絡を取るのも年に2・3回くらいな兄ですが、
家族の中では、一番真剣に今の僕の夢の話を出来る相手かなって、思ってます。

あとがき

色んな事を書きましたが、書ききれない事の方が多いのかもしれません。文脈の中では些細な事になってしまう一部分でも、本当は僕の人生にとって重要なファクターを持っていたりして、
そういったものをかき集めたら、きっと書き遺せたものの何倍もあるんだと思ってます。そうだとしても、だからと言って口をつぐんでしまうよりは、きっと伝わるものがあるはずだから。
最後まで読んでくれて、ありがとうございました。
またいずれ。

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