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「わたし」自身の明瞭さ(生きてきたなかでいちばんしあわせだった12月の記録)

「自分が明瞭であること」これが今回の一人芝居の大テーマである。それは、演じる上でも、物語の上でも。

毎週毎週大事件が起きすぎて頭がまっしろになったり、そこから復活したり。約半年ぶりの本公演はスタートしはじめてから約1ヶ月半、毎日、自分自身がどんどん違う人間になっていくようだ。起こることには、嬉しいことも悲しいこともある。でもどちらも起こってしまったのだから仕方ない、とも思う。諦めがうまくなった、少なくとも良い意味で。2018年はそういう一年だった。

今日初めて行ったお稽古場は最高の立地で、近くに綺麗で大きな寺があった。都内なのに京都みたいな場所だった。駅前の商店街の、かつて参道だったろうひなびた通りを眺めていると、実家のあるあたりを思い出して、直感的にここに住みたいと思ってしまった。だから駅名は書かない。
こんな気持ちになるなんて。先週母親と韓国旅行に行ったせいか、父親が犬を買ってきたせいか、どうもホームシックだな、と考えてから、あ、今日まだ何にも食べてなかったじゃん、と思い出した。最近気持ちが沈む時は、だいたい朝から何も食べていない。食べていないことが問題ではなくて、それに思い行き着くまでに時間がかかるのが問題だな、と思った。

一人芝居のお稽古は私一人で行われる。当然のようでいて、これがなんとも新鮮だ。
普段私が書く芝居は、「いわゆる演劇」とみなさんが想像して良いものだ。別に難しくもない。芸術的によりすぎてもいない。2時間映画のような芝居だ。だいたい過去になんやかんやある女のかつての罪が明るみになって、そっからどう生きてくか、みたいな話だ。その大筋をいつも私は、手を替え品を替え、何よりも「言葉」を変えて、つくり続けている。それはだいたい10人前後の登場人物が出てくる群像劇なので、まあそれなりの人数の役者たちとお稽古をする。だから今稽古場に一人であることが、新鮮で、孤独。

一人芝居は舞台上にいる役者たった一人が軸だ。この軸が強ければ強いほど面白い。それには正直なところ、音響も照明も舞台美術も関係なくて。役者自身の「自分自身が明瞭であること」。それが強さの裏付けになる。けれど、その明瞭さは、「観客の視点とバランスの取れたものであること」。そうでありたいと思ってしまう。これは、先月レッスンを受けたアルゼンチンから来た演出家・ウェービ氏の言葉だ。単に受け売りとして言っているのではない。彼の言葉が、私が持っていた前衛的な演劇への猜疑心を解きほぐしてくれた。だからわたしは、たった6日間だけだったけれど、彼を私の師と仰いでいる。
このことから言いたいのは、私というは、多くの人の影響から成り立っているということだ。私自身が何からも影響を受けず突然この世に完全体として生まれたのではなく、母親の産道を通ってオギャアとこの世に生まれて来たのと等しく。私自身を構成するものは、私以外のものから成り立っているのだ。
そう強く思うからだろうか。「明瞭であること」と、「観客の視点とのバランス」を瞬時に考えた時に、「観客の視点」を取ってしまうことがある。けれどもそれは、自分の思考が完全に理論だっていない時の私の人付き合いを考慮した「反応」にすぎない、と気がついた。「観客の視点」という名を借りているだけだ。結局のところ、反論するだけの自分自身の根拠がないだけだ。他人に準拠した、慮った、寄りかかった形での表現など、それこそ「明瞭さ」がない。自分の身体に落とし込まれていない思想をわかった気になって再現しているにすぎない。己自身の明瞭さが無ければ、逆に観客にはわかりづらくなる。表面的にはわかってもらえても、中身が行方不明になる。
そういう通し稽古をこないだやってしまった。
初回、2回目にはあった、自分の中の明瞭さが、次第に他人の目を感じて「わかるように」表現してしまうことを瞬時に重要視してしまう。そうすると逆に他人準拠になるから不明瞭になってしまう。
自分自身に明瞭であることはむつかしい。

普段私が書く芝居は、「いわゆる演劇」とみなさんが想像して良いものだ。別に難しくもない。芸術的によりすぎてもいない2時間映画のような芝居だ。私はそれに矜持を持っている。私の芝居は「わかる」芝居だ。わかり、かつ、単純ではない芝居だ。独りよがりの自己満足じゃない。発表会じゃない。そしてそれを手慰みに哀れんで買ってもらうんじゃない。買うにたりうる商品、それをつくっているのだ、演劇という形で。目の前に現れては消えてゆく夢のような形で。
商品には、購入者がいる。演劇には、観客がいる。
応えたい。私は、私の作品を買ってくれた人に、応えたい。
だから、明瞭でなくてはいけないのだ。明瞭であることは、独りよがりのことではないのだ。絡みついた強迫観念を解かなくてはならない。私が私のことを考えるのはワガママだという恐れを無くさなくてはならない。
私自身の明瞭さ。
舞台に立つ私だけが演出であるということ。
私そのものが演出であると言うこと。
切なくむつかしい、演技をするということ。
私自身を信じること。

今日は稽古場の近くで今年はじめての紅葉を見た。諦めは、決して後ろ向きな放棄ではなく、一つのピリオドであると考えてみる。あと1ヶ月。初日まで20日。その間に、きっと私は、また今の私とは違う人間になる。

よしもとみおり

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