イメージとnote

今日は完璧な日だった。

17:00に買い物に行き、近くの八百屋で98円のカブを買った。98円、その言葉だけでうきうきできる値段だ。しかも2〜3株じゃない、5株1セットで98円だ。八百屋の近くの、23時までやっていて、安いふりをすることだけはうまいチェーンのスーパーじゃ考えられない値段だ。もっとも八百屋は19時には閉まるので、残された4時間を煌々とした灯りをともしながら残業帰りの独り者を待つスーパーの人件費諸々と考えると、カブ5株1セットを98円で売るのは難しい話なのかもしれない。それから何を買ったけ。ああ、八百屋に勧められて、スプラウトにんにくを買った。スプラウトにんにくとは、にんにくに柔らかい芽が生えてるものだ。これは油であげて塩だよ!と2〜3回言われたのでその通りにした。普通のにんにくよりも辛くなく、においも弱いと言われたが、明日大切な用がある身で食べるものじゃなかったかもしれない。(においはある)

東京に越してきて1年と2ヶ月が経った。再上京という気持ちだが、大学4年間を過ごしていたのは埼玉なので、本当の意味で東京に住み始めてからは1年と2ヶ月だ。引っ越しして半年で家の近くにチェーンのスーパーがあることに気がつき、浮かれ、自炊をし、そのスーパーが意外と割高であることを知るのにまた半年をかけてしまった。今は八百屋と魚屋、それから肉屋でものを買い、無いものだけをスーパーで買っている。ただ野菜の値段に関しては圧倒的なアドバンテージを八百屋は誇っているが、肉屋や魚屋が同じようにスーパーに比べて安いかと言われると、それは微妙だ。けれどもあえて肉屋と魚屋を使うのは、魚屋であらをもらう時、肉屋で100g200円の豚バラを竹の皮を模したつるつる加工の紙で包んでもらう時、ああ丁寧な暮らしをしている、と思うからだ。その肉と魚は、スーパーの発泡スチロールのトレイに入っている肉と魚と、なんら中身は変わらないのに。

思うにわたしは「イメージ」を買っている。丁寧な生活の「イメージ」のために個人商店を利用している。そのイメージは安心安全だとか買った商品に付随するイメージではない。それを買うわたしに付与されるだろうイメージだ。「イメージ」とは「虚像」と言い換えられるかもしれない。それは現実には実在せず、質量を持たない。

思うに、虚像に向いているタイプの人間とそうじゃない人間がいて、わたしは多分向いてない方の人間だ。

noteに日常を書き綴るのをやめてしまったのはそこだ。noteには意識の高い文章があふれて居る。意識が高いとはつまり、noteという広場に現実の血の通った人間ではなく、知識や理想を語った文章が存在していることを指す。人間ではなく文章が在る。それがわたしのnoteの感触だ。

虚像を書きたいから、わたしはたまにnoteに小説書く。下手くそすぎて卒倒しそうになるけれど書く。noteに一番似つかわしいのは、現実から少し浮遊した虚像だ。

けれど。

わたしはきっと虚像を書くことに向いてないから、演劇をつくっているのだろう。目の前で役者という名前の人間が息を吸い、その息をこぼすことなく見つめる観客という名の人間がいる。そうして初めて生まれるのが演劇だ。そこでは日常と同じ文法が存在し、「丁寧な暮らし」をしている様に感じさせるのは、まぎれもない「丁寧な暮らしをした」わたしなのだ。一朝一夕に近所の八百屋で野菜を買い、それを特別大切に感じ、文章にすれば身に付くというものではない。積み重なった日常が「わたし自身」となる。

わたしは、人間が嘘をつけば一発でわかってしまう世界を愛している。実像の世界を愛している。

ということを、虚像にあふれたこの場所で書く。したためた時点で虚像になるわたしの実像。スプラウトにんにくを、油であげてキッチンペーパーの上におく。ふりかけるのは塩で、ゆっくりとそれが溶けてゆく。同じように、わたしの実像も、完璧な一日の終わりにぶれ、ゆっくりとにじんでゆく。

イメージとnote(記す、ということ)


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