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人生についての覚え書( 『永浜』に寄せて )

胸に苦しいものがあるの。誰かわたしを抱きしめて。と、わたしは泣くけれど、本当にわたしを抱きしめられるのはわたししかいないことを知っている。

3月22日から24日に阿佐ヶ谷アートスペースプロットにて上演する新作『永浜』は、琵琶湖を舞台に巻き起こる「永遠についての覚え書き」だ。老婆と少年が出会い、二人の過ごした一日が、永遠となる物語だ。

テーマは「人のせいにしない」だ。

「誰が選んでくれたのでもない、自分で選んで歩きだした道ですもの。間違いと知ったら自分で間違いでないようにしなくちゃ。」

と、森本薫は『女の一生』の中で書いた。主人公の「けい」のセリフだ。わたしはこのセリフが大嫌いだ。明治時代の生まれで、はたして自分の人生を自分で決めて歩めた女がいるのだろうか。無頓着な無邪気さで他社の痛みを踏みにじる。まるで世界の人間が自分と同じ境遇にあるかのように勘違いしている、男の書くセリフだよ。そう苦虫潰していた。

しかしながら最近この戯曲を読み返して思うのは、この言葉を口にした瞬間に、「けい」の中で、生まれて初めて、確信めいた自己肯定が生まれたのではないか、ということだ。戯曲というものはある人間の人生に置ける決定的なシーンだけを抜き出して構成されている。つまり「けい」が上記のセリフを口にするシーンは、出て行った夫や初恋の相手に対する複雑な恋慕、うまくいかない家族関係に対する苦しみ、全ての感情を押し込めるような「耐え」の瞬間を描いているのではなく、彼女が「ユリイカ!(我、発見せり)」したからこそ描かれたシーンなのではないだろうか。「わたしの人生は、わたしが選んできたものだ」、と。

これは演出だ。演出とは仮説だ。と、アルゼンチンの演出家、ガルシア・ウェービ氏は言った。まさしくその通り。文字にされた物語を立体として起こす時、演出家は仮説を立てる。例えば「彼女は心底から自分の人生と自分のものだと確信してたのではないか?」というように。紙の上に書かれた文字の連なりに過ぎない物語を、観客の目の前に熱を持った実体として顕在させるために。

わたしが『永浜』の物語で観客に提案したいのは、人生もそうだ、ということだ。君の人生の意味など、君が仮説を立てるしかない、ということだ。いや、違うな、むしろこうだ。「わたしの人生の意味などわたしが仮説を立てるしかない、と君は気がつけるかどうか」だ。

わたしがわたしの人生の演出家になれるかどうか。目の前を通り過ぎてゆく一瞬一瞬に連なりと意味を持たせることができるかどうか。すべてわたしが決めてきたものだ、と、確信できるかどうか。

「誰が選んでくれたのでもない、自分で選んで歩きだした道ですもの。間違いと知ったら自分で間違いでないようにしなくちゃ。」

この言葉は抑圧への迎合ではない。解放の確信だ。耐えるな、君が操り人形じゃないのなら。痛みを止めるな。痛みと向き合え。苦しめ、嘆け、自分のためだけに。

物語はそこに生まれる。人生の意味はどうだろう。そんなもの最初から存在しないとわたしは思っているけれど。だけど、君の人生を君の物語にしたいなら、君は君の人生の演出家でいなくちゃね。失敗も悪評も君のもの。でも、観客の涙も君のものだ。

2019年春夏シーズンのわたしのテーマは「少女と道」だ。一人の人間が変化する、その遥かな道のりの第一歩を描く。『永浜』もそうだ。割れたガラスがキラキラと反射する浜辺で少女は歩く。足からは血が出ている。けれど歩く。痛みを確かに感じて。喜びを探しながら。永遠と一日の湖を歩く。

少女都市 第6回公演

『永浜』

3/22(金) 16:00~/20:00~
3/23(土) 12:00~/16:00~/20:00~
3/24(日) 12:00~/16:00~

チケット発売中(一般3000円・学生2800円)
https://engeki.jp/pass/events/detail/539

劇場:阿佐ヶ谷アートスペースプロット


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