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noteを毎日続ける意味

2日、noteの更新を休んだ。
10日は政治に関して考えることが多すぎて。(結果、noteにまとめたら立派な分量になりそうなぐらいのつぶやきをTwitterにしていた)
11日は弟が救急車で運ばれて文章を書く時間が持てず。(これは本当に気持ちが不安になった。結果、なんともなく本当に良かった)

この2日でnoteを書かないとどうなるのか、正しくは、私の気持ちがどうなるのか、観察していた。気が付いたことが2つある。

1つは「早く今日の分を書かないと!という焦りから解放されること」だ。
別に誰から強制されて書き始めたものではなくても、毎日書くと決めるとそれなりのプレッシャーがある。それから解放されて、眠たいときに寝たり、入りたいときにお風呂に入ったりするのはすごく気が楽だった。

実は、今日も書くのをやめようかなと思っていた。だけど、もう1つのことに気が付いてやめた。それは「1日1回noteを書くことは、起承転結における≪起≫と≪結≫のある文章を書く練習になっている」ということだ。

どうしても仕事がはかどらず、うんうん唸っている夕方に気が付いた。今、自分がつまずいているのは文章における「起承転結」をどう進めていくか、だ。
美しい言葉で、情景が分かるように、読んだ人の心に映像のようにわきあがり、登場人物と共鳴し、彼らを感情のドライブに連れ出せるように。そう心がけて、毎回仕事をしている。

だけど今回はどうもうまく運ばない。なぜなんだろう?と考えて、「あ!noteを書いていないからだわ!」と気が付いた。noteを書くとはすなわち、≪起≫と≪結≫のある文章を書いて人に見せるということである。

自分にとって稚拙な状態でも、まだまだブラッシュアップできそうな状態であっても気にせずに、とにかく最後まで文章を終わらせる。それは意外とむつかしいことだ。特にすばらしいものを書こうとして肩に力が入っている時、非常に困難になる。だけど、終わらせて初めて、文章はその「穴」を見せてくれる。より良い文章をつくるために必須の改訂は、終わらせないとはじまらない。毎日noteを書く、そう決めて、文章を始まりから終わりまで書いて、それをアップする。人に見せる。そのことが、「文章を始めて終わらせる」という以外に難しい取り組みの練習になっていたのだ。それをやっていなかったからこの2日、どうも筆が進まなかったのだ。

稚拙な状態の自分でもまずは受け入れること。すべてはそこからはじまる。

ということで、これからはできるだけ毎日更新をしようと思う。その方が仕事もはかどるってわかったしね。

毎日嫌なことが続くけれど、こうやって自分にとって大切なことに気がつける日もある。だから考えることを続ける。声をあげることを続ける。嫌になっちゃう日もあるけどね!でも君が嫌になったぶん、わたしが話すよ。安心してね。じゃあ、今日もおやすみ。明日も元気で過ごしてね。


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