「宗教2世」に対する同化アプローチと調整アプローチ――荻上チキ編『宗教2世』書評への再応答に代えて

今回のnote記事では、本年1月に書いた荻上チキ編『宗教2世』の書評記事にいただいた反応を踏まえつつ、宗教2世をめぐる議論をさらに更新していくためのいくつかの論点を提示したいと思います。

・前回書いた記事⇒
宗教2世を宗教被害者としてのみ論じることの問題について~荻上チキ編著『宗教2世』書評~

・それに対する社会調査支援機構チキラボのレスポンス⇒
「『「宗教2世」当事者1,131人への実態調査』報告書、および書籍『宗教2世』に対する反応へのお礼と、書評に対するレスポンス

上記を読んでいる方ならご存じかもしれませんが、冒頭で述べた書評記事には社会調査支援機構チキラボ(以下チキラボ)からの長文のレスポンスをいただいています。
なので今回の記事はチキラボへの再応答が中心的な話題にはなるだろうと思われるかもですが(じっさい部分的にそうなるのですが)、まずはその前に、書評記事を読んでいただいた方々への御礼を述べたいと思います。

なんというか「宗教2世」というテーマは、「カルト宗教に騙されてました」風のエッセイ以外では書店にもほとんど流通していないわけで、書いてもあんまり反応ないかもと半ばあきらめている所はありました。
また、これは界隈にいない人もなんとなく察しているかなと思いますが、新宗教・カルト研究界隈のトレンドはかなり明確に宗教規制にあるわけです。そんななか、「宗教被害だけではない2世もいる」という議論を展開することは宗教擁護とも捉えられかねないという懸念もあったわけで、報道で苦しんでいる「2世」が多くいるにもかかわらず、筆を執ることにそれなりの躊躇があったのも事実です。

ただ、戦後日本における信教の自由という基本的人権の来歴を念頭に置いたとき、そんなマゴマゴとできるような言論状況ではなくなってきたという昨年末ごろの切迫感と、荻上チキ編『宗教2世』という具体的な論及対象、そして自分のなかのモヤモヤを言葉にしたいという思いで開催した読書会(前回記事参照)に参加いただいた方々のおかげで、「宗教2世」という積年のテーマの一端を言葉にすることができました。
とくに読書会に参加いただいた2世の方々には心から感謝しています(*1)。

もちろん公開にあたっては、自分の参加している研究会で「いまチキさんの本の書評書いてて~」などと軽めに情報共有をしてみたり、ちゃんと該当分野で実績のある研究者の方に事前チェックしてもらったりと、それなりに情報の正確性を高めるための準備はしていました。
ただ、実際に読んでもらえるかは別なわけで、ちゃんと記事に反応があって、また多くの方に好意的に受けとめてもらえて、かなりの程度ほっとしています(*2)。

研究者の方から当事者の方まで、さまざまなご反応があってそれぞれに勉強になることが多かったのですが、チキラボへの再応答という文脈で気になったのはつぎの2点です。

1点目、それは感想をつぶやかれた方の寄って立つ所がかなり程度バラバラだったことです。これまで私が過去に書いたnote記事を拡散されていた方々は、どちらかというとリバタリアン寄りというか、古典的なタイプの近代主義の系譜に属する人が多かった印象です。ただ、今回の書評記事への反応は、やや保守に属するような方から、反差別運動にかかわっている方々まで、かなり多岐に渡っていたように思います。
この点は本記事の後半でもすこし触れますが、現状の日本のSNS空間において、宗教をめぐる対立軸は、イデオロギー的な「左・右」や、ブレイディみかこさんがいうところの「上・下」とは別のところに引かれているのかも、と思ったりします。
宗教をめぐる感性のようなものは、戦後日本において、身近なところに「宗教」をしている親族がいたとか、小学校の頃に仲のいい友達の家に遊びに行ったら「変わった種類の仏壇」があったとか、わりとそういった偶然的な要素に左右されるのかもしれません(*3)。

2点目は、さまざまな当時者からいただいたご感想はそれぞれに切実なものがあって勉強になったのですが、今回の記事の文脈では、とくにエホバの証人の2世の方々からいただいたご感想にとくに印象的なものが多かったように思います。
これは読書会に参加されたのが、創価学会と統一教会の2世だったこともあるかもしれません。この二つの教団の2世(その中でも、明確に被害2世であるわけではないもののおそらくは組織活動にフルコミットはされてない方々、あるいは少なくとも一度は距離を取られた方)の反応は、かなりの程度読書会で出た感想と近いものでした。つまりチキラボの分析に対する違和感が強く、とくに社会からの加害の局面の分析が足りていないという指摘への共感の声が多かったように思います。

この点、安倍元首相殺害事件以降の言説状況のなかで、この二つの教団の置かれた社会的文脈が接近しているというか、とくに自民党との関係性や、「宗教と政治」という問題設定のなかで同一線上にあるものとして論じられる傾向にあること(島薗2023等)も関わっているかと思います。
つまり統一教会と創価学会の2世の一部にとって、社会はいま同じようなものとして見えている/自分たちが同じようなものとして見られているという感覚が強くなっているところがあるわけですね。

ただ、エホバの証人の2世の方々のご感想は、どちらかというとチキラボの分析に対する違和感は少ないというものが多かった印象です。つまりマインド・コントロールや「宗教の残響」といった言葉を自らの人生に当てはめて語る点については、かなりの程度納得されている。ただそのうえで、そうした分析をほかの「宗教2世」一般に拡張することについての拙noteの危惧に、慎重にではありつつも、ゆるやかな共感のご感想をいただくものが多かったように思います。

今回、拙noteのご感想を読むなかであらためて感じましたが、エホバの証人の家庭に生まれたことの苦しみは、創価学会の2世からはほとんど聞いたこともないような苛烈な経験があるという点です。
私自身は、実家の隣に住んでいたのがエホバの証人の家族だったり、いくつかの調査報告やエッセイ・小説を読むなかである程度のイメージをもっていたつもりでしたが、やはりそこには安易な比較や共感を拒むような、教義や実践によって正当化された虐待=宗教的虐待と呼ぶべきものが実際にある(*4)。
そうした苛烈な経験は、エホバの証人という個別的教団への恨みを越えて、「宗教」という事象全体への拒否や嫌悪へと接続されても当然のものがあると思いますが、拙noteを読んでいただけた「荻上チキ・ Session」リスナーのエホバの証人2世の方々の幾人かは、荻上さんへの変わらぬ信頼を示しつつも、放送や書籍『宗教2世』のなかで展開されたいくつかの慎重さを欠いた表現についての再考を真摯に求められていた。
自分の人生を大きく規定してしまったはずの「宗教」という現象が抱え込む「様々さ」について、そのような重層的な視点のもとに受けとめていただけたことは、「宗教2世」というテーマが進むべき議論のひとつ理想をみたように思います。

私たちは、生まれた時も、地域も、性別も、親の信仰の程度も、教団の教義もなにも共有するところはありません。ただ、人生を経るなかで刻まれた「傷」の形だけが、なぜかすこし似ています。
「宗教2世」という言葉の分析的意義については引き続き留保していきたいですが、そうした「生きづらさ」を少しだけ受け渡したり、あるいは受け取ったりすることを可能にする同概念の実践的意義については肯定できるものがあるかもしれない。
もちろん、安倍元首相殺害事件と宮台真司教授襲撃事件、2つの事件の犯人の親がそれぞれ特徴的な宗教のメンバーであったことが「また宗教2世か」という信じられないほど雑なくくりで報道されてしまう現状には目も当てられませんが(*5)、生きづらい世の中が少しでもマシなものになるよう、「宗教2世」に関連する議論を今後とも継続していければと思いますし、もし心身の健康に負担がかからないようであれば、それぞれの本テーマへのコミットメントの程度に応じつつ、それぞれの人生経験のもとにご感想やご批判をいただけると大変うれしいです。


チキラボへの再応答に代えて

などなど、ここまですでに3千字近くの文字数を消化しましたが、いまだチキラボの応答の内容にはほとんど触れていません。
冒頭でもすこし触れましたが、本記事は、チキラボレスポンスへの再応答や、ましてや反論のようなものとして提出することは意図していません。
これは当該レスポンスを「論争」のようなものとして位置づけたくないという先方の意向を踏まえている所もあるのですが、どちらかというと私自身がそうした「論争」を招くものとして先のnote記事を捉えていないという点もあるかなと思います。

チキラボの応答には拙noteへの反論と呼べるものがかなりの分量で含まれていたのですが、そうした応答が妥当なものであるかは読んだ人がそれぞれ判断すればいい話で、「宗教2世」というテーマに興味のある人にとっては些細なことかなと思います。
重要なことは、昨年7月の安倍元首相殺害事件からつづく一連の議論のなかに、チキラボの「『宗教2世』当事者の実態調査」、書籍『宗教2世』やそれに続く一連の諸活動、拙note記事とそれについての様々な方からのご感想、およびチキラボレスポンス等をその都度位置づけつつ、宗教被害者の方々の救済や社会的ケアの制度化が最重要の課題であることをつねに念頭におきながら、「宗教2世」をめぐる議論をいかによりよいものに更新できるかでしょう。

本記事はこの課題への貢献にむけて、チキラボレスポンスのいくつかの内容、および横道誠先生が編者となった『みんなの宗教2世問題』や『信仰から解放されない子どもたち』等に触れながら、前回の記事には盛り込めなかったいくつかの論点について論じていければと思います(*6)。
これは『宗教2世』読書会のなかでは到達すべき目標の一つとして盛り上がりながらも私の力不足で先のnoteから削除してしまった論点なのですが、さまざまな方から応答いただけた今の文脈でなら、問題の突端に手のかかるところまではたどり着ける気がします。
読んでいただけるとうれしいです。


「宗教2世」とマインド・コントロール論の今後に向けて

というわけで、まずはチキラボレスポンスのなかで実りのあった点に簡単に触れていきます。

もっとも進展のあったポイントとして、拙noteで行ったマインド・コントロール論についての指摘のかなりの部分を受けいれていただいた点があげられるかなと思います。
お返事ではとくに同概念を親子関係に当てはめることに慎重であるべき点につき、一定の共通了解のようなものが形成できたように思います。

もちろん宗教的虐待という事象に限定するならこの点だけでも十分な進展ではあるのですが、先のnoteではもうすこし広く、マインド・コントロール論は「宗教2世」や「宗教者」とのコミュニケーションを阻害することで、対象者の信念を「理解」する際の障害ともなることを指摘したものであることも、念のため付言しておきます。
たとえば、マインド・コントロールの危険性を論じた西田公昭先生へのインタビューでは、親子関係だけでなく、戦後日本で「新興宗教」が拡大してきた要因についても話が及んでいることが確認できますが(82-84頁)、こうした不用意な議論は、「新興宗教」に所属した人びとの諸活動は組織的なコントロールによるものであって自らの意志にもとづいたものではなかったという印象を与えかねない話の進め方になっているかと思います。

同様の指摘は⇒

同様の問題は、マインド・コントロール論に限らず、たとえば相対的剥奪理論的な観点から戦後日本の女性宗教者の行動を説明するような議論においても散見されます。
簡単にいえば、男性に比べて女性の新宗教信仰者が多いのは、戦後日本がジェンダー不平等な社会だったからであり、彼女たちは社会で得ることのできなかった承認や資源を宗教にのめり込むことで代替した/搾取されたといったタイプの主張です(*7)。

こうした「理解」は、一見対象の困難に寄り添っているようにみえて、女性たちが得たものをアプリオリに代替的なもの=真実ではないものとして評価してしまったり、指導者や組織によるコントロールの観点を強調することで、戦後を生きた女性信仰者のさまざまでありえた人生を、「騙された存在」や「従属的な存在」として再記述してしまうことにつながります(*8)。
また社会構造の影響を過度に大きく見積もる説明(=構造還元論)は、女性の労働環境や福祉環境を改善すれば怪しい宗教に入る女性もいなくなるはずといった安易な「解決策」を提示しやすくする点で、社会政策を考えるうえでも問題のある視点です。
そんな他人の人生に敬意を抱かない主張に説得力を感じる人間はいないだろうと多くの方は思うかもしれませんが、昨年の事件以降、これと同レベルの「解決策」がSNS上で拡散されているのを幾度か確認しています。

生活に不可欠であるにもかかわらず無報酬でなされてきた専業主婦らの労働にシャドーワークという名前が付けられたことで、正当に評価する道が一部開かれたように、戦後を生きた女性信仰者の諸活動にも、私たちがまだ適切な名前を用意できていないだけで、市民社会を支えるうえでなにがしかの貢献があったのではないか(⇒シャドーワークとしての宗教実践?)。
彼女たちをただ「騙された存在」として描く前に、一度くらいは問いなおしてもいい視点かなとは思います。

ここには「宗教と意志」あるいは「宗教と主体」と呼びうる問題系があることが確認できます。
もちろんここから、現役「2世」信仰者側の選択こそが唯一の指標であるとして議論を進めるならば、たとえば教区長のポストに(男性だけで構成された)2世信仰者を任命するという旧統一教会側の明らかにその場しのぎのパフォーマンスや、昨今の情勢に「自らの意志で活動に励み、信仰の確信をつかみ取った原体験」を対置することでこと足れりとする、内向きの視点しかもたない「soka youth media」等の活動を肯定することにもつながりかねないわけで(*9)、この路線は取れません。
ひとまずは、宗教者を自立的主体のみとして描くことも、構造的弱者のみとして描くことも、それぞれに限界があるという点につき、なんとなくでもいいのでお含みおきいただければと思います(*10)。


立場を明確にされたことと、その後処理

つぎに進展のあったこととして、「宗教2世」として括られる集団の中でとくに「宗教被害者としての側面」にフォーカスするという自らの立場をチキラボが明確にされたことが挙げられると思います。

ただ、「宗教被害者としての側面」があまりに軽視され、児童福祉や子供の尊厳などと切り離されてきた方が多くいる状況の中では、「宗教的虐待」にフォーカスすることの重要性は、どれだけ強調してもしきれません。そして2022年の調査時点では、「宗教2世」という言葉で、自己の宗教被害について自己定義・自己理解している人が少なからずいたなかで、その方々の経験を可視化すること、そこに言説を届けるために、同語をレポートでも用いた点なども、必要なものであったと位置付けています。

そうした立場が社会調査支援機構としてどこまで妥当であるかは置くとして、明示的ではないよりは明示的である方が、「宗教2世」をめぐるチキラボの主張に触れた際の、受け取り側の混乱が少なくなるわけで、議論全体にとって進展と呼べると思います。

つぎに問題とするべきは、そうした「宗教被害者」に照準するというチキラボの意図が、どの時点で、どの程度まで自覚的であったのかという点です。
チキラボの調査のタイトルが「『宗教2世』当事者の実態調査」であることからも分かる通り、当該アンケートは「被害実態」ではなく「実態」を明らかにするものとして募集され、公開されました。
回答にもみられる通り、私をふくめて多くの「宗教2世」は、被害(者)だけが聞き取り対象ではないというチキラボの趣旨に賛同して拡散・回答したわけですが(*11)、「被害者」の声にフォーカスすることを「リサーチクエスチョンとして意識的に重視した」という今回の応答を拝見する限りでは、「宗教被害」を強調する点につき、調査時点で相当程度に自覚的であったことが伺えます(*12)。

調査目的が、「公開されたもの」と「実際のもの」で、かなりの程度距離がある。
もうすこし強い言い方をするならば、とくに「被害」に焦点化することをはじめから意図していたにも拘わらず、「被害実態の把握」ではなく「実態把握」を名目として、「何かしらの宗教二世」に該当する人を広く募集して数を増やしたうえで(*13)、「宗教2世」の「実態調査」として国対ヒアリングの場で被害報告を行ったわけです。
研究者の方々をリサーチャー・リサーチアドバイザーにした組織の行う社会調査としては、調査対象者に対しても、報告先に対しても、相当に問題のある姿勢であると考えます。

もちろん実態の解明を目指した社会調査ではなく、被害者救済を目的とした社会運動としてならば、調査対象者への誠実さとはべつの論理が優先される局面があることも私は否定しません。
ただ、運動目的のために、社会調査という営み全体への信頼を損なう行為をされたことは、社会調査支援機構として問題であると考えますし、調査回答者・協力者としては率直に裏切られた思いがあります。

もちろん国対ヒアリングでの報告時や、書籍『宗教2世』の刊行時には、チキラボの情報発信が「宗教被害」だけではない「2世」にとって問題のある内容である点につき、十分にはご理解いただいていなかったことは考慮されるべきです。(先のレスポンス時点でも依然問題はあるのですが、その点は後述します。)
上記のような失点をもって、チキラボ調査の意義全体を否定することはしませんし、同調査にもとづいた報告をしてきた国対ヒアリングやメディアそれぞれに対して修正依頼を求めるものでもありません。
ただ善意にしろ悪意にしろ、公にされた調査目的と実際の報告意図にかなりの乖離があったことは現時点で明らかになったわけで、先のアンケートが当事者の「実態」を反映したものであるという説得性の根拠として「1,131人」という数字を使うことは今後控える必要があるのではないか、というささやかな指摘をするにここでは留めます(*14)。


「納得している現役信者・対・被害を受けた宗教2世」という構図

ここまで、チキラボの応答のなかのポジティブな要素に触れつつ、「宗教2世」をめぐる議論をよりよいものとしていくための課題をいくつか提示してきました。
以下では、チキラボの応答に含まれたネガティブな要素を検討することで、「宗教2世」を取り巻く昨今の議論が抱える問題とその背景を、より明確にしていければと思います。
個人的には、ここからが本論です。

(繰り返しにはなりますが、本noteはチキラボ応答への反論を目的としたものではありません。冒頭でも述べた通り、チキラボの応答を、昨年から続く「宗教2世」全体の議論や、社会学や関連分野の文脈に接続することを通して、宗教を報道するメディアが陥りがちな誤解や、問題があるにもかかわらず自明視されたままになっている前提を明らかにすることで、「宗教2世」をめぐる議論をよりよいものに更新していくことを目指しています。)

今回のチキラボの応答のなかで最もよくないなと感じたのは、私の書評noteの存在に気づいたきっかけとして、当該noteを読んで傷ついたという宗教被害を受けた2世の方の声を紹介されていた箇所です。ひとまず引用します。

特に連絡者の一人はとても消耗されていたので、その理由を詳しく聞くと、「被害体験を受けた自分は、親や教団から『被害はないもの』とされてきたが、宗教2世という言葉を用いてようやく繋がり始めた。その後、『納得している現役信者もいる』という趣旨のことを、何度も言われてきた。この記事は、『納得している側の言葉』として親や信者から何度も言われてきたことと重なり、当時の記憶をフラッシュバックさせられ、自分が手にした言葉を奪われているように感じた」と述べていました(私が応答するならこのことにも触れてくれないか、とも言われました。なお、タサヤマ氏自身が「納得している側」であるかどうかは別であると思う、ともお伝えしています)

この箇所のよくなさについて、エホバの証人2世であるダッヂ丼平さんはnote記事「子どもの権利をまもるために〜荻上チキ編著『宗教2世』の問題点〜」にて次のように述べられました。

それなのに荻上さんは色々と理屈をこねつつ、タサヤマさんの書評そのものが「納得している2世」からの「宗教被害者としての2世」への二次加害になりうるとほのめかすような回答をした。/荻上さんが「宗教2世問題」についてどんなご意見をおもちだろうと、ごく単純にこんなことは社会調査をおこなう人がインフォーマントにたいしてやっていい仕打ちではない。

適切に分節化できていたならば本来傷つける必要のなかった対象にまでハレーションを起こす議論になっているではないかという調査協力者・対象者からの指摘へのレスポンスとして、「被害を受けた宗教二世・対・納得している現役信仰者」という枠組みを再設定することで質問者を当事者同士の争いの場に引き込みつつ、自らは留保したと示すことで舞台から身を引く
社会調査に携わる者として、決して推奨されない姿勢かなと思います。少なくとも私の身の回りで、対象者からの問い合わせにチキラボと同様の対応をした研究者の事例は聞いたこともありません。

ただ、ここで連絡者の方の「受け取り方」は、「宗教2世」をめぐる議論を継続するうえで、とても重要な声であると考えます。
「被害だけではない宗教2世の人生がある」という当事者からの訴えが、「宗教2世に被害者はいない」という現役信仰者からの弁明として聞こえてしまう
こうした当事者の声に真剣に向き合うべきであるという点につき、私とチキラボの間で相違はないかと思います。
違いがあるとするならば、そうした声は、「宗教2世」の「実態」を明らかにするための調査を教導する指針やガイドラインのようなものではなく、「宗教2世」をめぐる調査が理解すべき当のものではないか、という点にあります。

対象にはグラデーションが存在するという指摘が、加害者と被害者のような相互に排他的な二項対立の構図に再回収されてしまうのはなぜか。
宗教や家族という人生に深くかかわるテーマだけに、直線的に考察を進めることは叶いませんが、こうした入り組んだ議論を解きほぐす視点として、三木那由他さんが『言葉の展望台』のなかで紹介した、ミランダ・フリッカーの「解釈的周縁化」という概念を紹介しておきます。
同概念について三木さんは、言葉や概念は広い意味での社会的なコミュニケーションのなかで形成されるが、そうした営みへの参加を制限されたグループがいる場合、それら当事者にとって重要な経験が認識されないままとなり、社会的な問題として共有されづらくなる現象をさすとされています(三木2022:54-55)。
周縁化された人たちが経験しがちな現象として三木さんが挙げられているのが、「解釈的不正義」です。

解釈的周縁化を受けているグループは結果的に自身の経験を語る言葉や概念が見出せず、それを自分でうまく理解したり、他人に伝達したりする際に困難を経験することになる(三木2022:55)

「宗教2世」の経験を語る言葉が圧倒的に不足している、という話は昨年以降、このテーマに関わるさまざまな人たちが口をそろえて指摘するところです。
宗教によって深く傷つけられたという語り。「宗教2世」という人生には、被害以外のものもあったという語り。被害以外もあったという声が、(親の宗教が異なるにも拘わらず)自らの被害体験を否定するものとして聞こえてしまうという語り。
「宗教二世」の「実態調査」というものがあるとすれば、上記のようなさまざまな当事者の語りを真摯に受け取りつつ、それぞれの語りを全体の構造のなかに適切に位置づけることで、混線しているようにみえる多様な経験それぞれに相応しい言葉を、当事者とともに見出していく営みであったはずです。
「被害を受けた宗教二世・対・納得している現役信仰者」という構図はあまりに粗雑ですし、宗教被害者以外の「2世」を加害者側の立場に引き込むことで、特定の立場からの声以外に社会の耳をふさぐ効果を持ちかねません。

同様の指摘はこちら⇒

宗教被害者の側に立つというチキラボの姿勢は一見倫理的にみえますが、その決断が多様な「実態理解」への問いを欠いたもの、あるいは当事者の一部への問いを閉ざすものであった場合、当事者間に無用の軋轢を引き起こすだけでなく、当事者間の分断を再強化することを通して、「宗教2世」という「課題」の改善を阻害するものになり得ます。(⇒社会調査による当事者間の分断の再強化社会調査による当事者の選別社会調査による対象者のさらなる解釈的周縁化
被害にあわれた方々のケアが最重要の課題であるからこそ、対立構図を設定するにせよ幾重にも慎重に留保しつつ、多様な当事者の語りに耳を傾けることが重要であると考えます(*15)。


依存症、フェイクニュース、デマ、宗教

教団メディアが理想とする「信仰の継承された2世」でもなければ、宗教に批判的なメディアが取り上げやすい「宗教被害者としての2世」でもない。こうした「2世」を、ひとまず過渡的な表現として「マージナルな宗教2世」としておきます。
「宗教2世」をめぐるそうしたマージナルな経験が、「当事者」同士においてさえ理解されづらいのはなぜか
この点をさらに深堀していくにあたって参考になるのが、書籍『宗教2世』で紹介された「宗教の残響」概念と、当該概念をめぐる今回のレスポンスです。

「残響」(エコー)そのものは、「スキーマ」などと同様、日常における思考、記憶などを理解する上で有用な言葉として採用しており、それ自体には否定的なニュアンスを持たせるものではありません。それが「否定的に働く」「不健康な仕方で機能する」ことはありますが、「残響=悪」とは定義していません。

「(『「宗教2世」当事者1,131人への実態調査』報告書、および書籍『宗教2世』に対する反応へのお礼と、書評に対するレスポンス)」より

チキラボレスポンスのなかで示されていた個別の「応答」にお返事はしません。
AとBを乱暴に比較するのは不適当ではないかという批判に対して、私たちはどちらにも偏見はもっていない、比較されて嫌がるのはあなたたちがBにたいして偏見をもっているからではないかと返答するのは、ディベートテクニックでしかありません。
性同一性障害ではなく性別違和の方が表現として望ましいという提言に対して、それは障害者差別ではないかと混ぜっ返すような議論といえばいいでしょうか。
まじめにお返事するには適切な問いになっていないというか、そこに私たちが応えたい言葉の場所はない。残念ながら、そう感じています。

そのうえで本記事の文脈で取り上げたいのは、「残響」という言葉についての「それ自体には否定的なニュアンスを持たせるものではありません」という記述です。
上記以外にも、「宗教の残響」という言葉の使用に当たってチキラボ側に差別の意図がないことを強調されていましたが、この点において、チキラボの方々の意図は問題としていません。
病理的な存在とされた人々にたいするチキラボの差別意識の有無を問うているのではなく、そもそも宗教という属性を病理化してはいけないという指摘です。

「宗教」という属性表現に不用意な形でネガティブな意味を付与される活動を、書籍『宗教2世』の刊行以後も継続されていることが確認されます。
たとえば、2023年1月13日に本屋B&Bで開催された横道誠さんとのイベント「宗教2世を、<流行語>で終わらせぬために」。
ここで荻上チキさんは「宗教の残響」概念を、フェイクニュースやデマを信じる人との関連で論じられています(⇒イベントページはこちら)。

荻上チキ:たとえば「宗教の残響」という言葉。これは宗教を脱会したんだけれども、脱会する前に与えられた価値観がいつまでも残り続ける、エコーとして響き渡る。これは実は「信念の残響」という社会心理学の言葉があって、これはフェイクニュースを聞いた人が、そのあとそれはフェイクだよ、間違っていたよと教わったとしても、フェイクニュースを聞いた時のある種の感情というものはそのまま残る。たとえばよくあるデマとして、政治家にたいするデマがあります。あえてたとえば名前を言うと、福島みずほさんという方がテレビでこんなことを言っていたよ、というデマがあったとします。そんなときに人々は、そんなバカなことを言うなんてあの政治家は信じられない、みたいになる。ただそのあとフェイクだった、デマだったとなったとしても、じつはその人に対する、今回でいう福島さんに対する否定的な感情はそのまま温存されていく。これがフェイクニュースの怖さでもあるんですが、同じく「宗教の残響」も、脱会したというふうに言っても、会を身体的に抜けたとしても、心理的・精神的・価値的・規範的にはやはり残り続けるというところがあって。そのような言葉を使って自己解呪されている当事者の方々のログというものを読ませていただきました。

注目されるべき表現は「同じく」です。フェイクニュースやデマ。そうした情報を信じた時に残る感情が、「同じく」という言葉で「宗教の残響」の説明に接続されていることが確認されます。
私はこのイベント動画を見逃し配信で視聴したのですが、対談がこの箇所に差し掛かった時、思わず再生を止めてしまいました。

はじめに言っておくと、荻上さんらがフェイクニュースやデマを信じる人びとにネガティブな感情や偏見のたぐいを何一つ持たれていないことは重々承知しています。
重々承知したうえで、このイベント会場では、宗教はフェイクニュースやデマと同列のもの、相互に代入可能なものとして語られていると解釈することがリテラルな受け取り方だと思います。
繰り返しになりますが、ここで問題としていることは、荻上チキさんの宗教に対する悪感情の有無ではありません。フェイクニュースやデマと「同じもの」として宗教を論じること自体が、「宗教」という属性のもとに生まれた人々にとってもつ効果です。
個人的には、この発言がされた時点で、B&Bさんのスタッフは一度イベントをストップされるべきだったと考えます。クローズドな場所ならともかく、書店イベントという公の場所で言葉にされていいものではありません。(*17)

いまさら言うまでもありませんが、宗教は差別の対象となりうる属性の一つです。
たとえば世界人権宣言では、その第二条において「すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる」と定めています(*18)。
なぜか日本では差別の関連で言及されることは少ないのですが(*19)、国籍や出身地域、性と同様、差別や暴力から保護されるべき社会的カテゴリーとして宗教は国際的に認知されています。

文章にするのも憚られますが、在日コリアン家庭出身で日本に帰化された方に「朝鮮の残響」という概念を当てはめることも、都会に出てきた部落出身の方の語りを「部落の残響」という枠組みで分類することを提唱することも、トランス女性の方にたいして「男性の残響度」、トランス男性の方にたいして「女性の残響度」という指標のもとにカウンセリングを行うことも、当事者の方々が内輪の集まりのなかで自らに引き受けて語り合うようなごく限られた文脈を除いて、それぞれに一部の隙もないほどの侵害的行為であることは論を待ちません。
調査者側がそれらの言葉にどのようなニュアンスを込めたかは、この点において最優先されるべき事柄ではないでしょう。

なぜ宗教という属性表現ならばそれが許されると考えられたのか。宗教がそうした諸属性と「同じく」ではないもの、区別されるべきものと考えたとすれば、それはどういった言説構造や諸観念のもとに正当化されているのか。
性的少数者を「精神障害」や「依存症」だと規定した自民党会合での配布文章には差別だと声をあげた人々が(*20)、宗教者の信念を依存症の用語で語ることは不適切ではないかという当事者から指摘に対しては、それは依存症への偏見であると応答してしまったわけです。
前節の指摘とも重なりますが、自らの調査報告についての疑義が調査対象者から届けられた時、そのような受け取り方をされたのはなぜかを真摯に問うことなく、質問者側の偏見を初手で指摘するという対応されるに至った経緯について、社会調査支援機構としてまずは真剣に自省される必要があると考えます。

繰り返しますが、「宗教の残響」概念を提唱されたことは宗教者に対する明白な差別であり、不当なラベリングです。「『宗教2世』当事者の実態調査アンケート」の趣旨に明確に反するものであり、厳密に限定されたものに修正されるか、撤回されることを望みます。


「世俗中心主義」という視点

ここまでは「宗教の残響」の前半部分である「宗教」という属性表現について論じてきました。
ここからさらに後半の「残響」という言葉のもつ含意のほうに話を進めたかったのですが(「宗教の無音地帯」はいかなるものと想定されているか)、すでに十分長くなってしまったので、「宗教の残響」についての検討はここでいったん切りあげます。

前回のnote記事から今回にかけて、書籍『宗教2世』とチキラボレスポンスをもとに、「宗教2世」をめぐる昨今の議論が抱える論点をいくつか取り出してきました。
マインド・コントロール論と「2世」の他者化、「2世」に対するマイクロアグレッション、「宗教の残響」と病理化、教団や親からの加害と社会からの加害、剥奪理論と「宗教と主体」問題、解釈的周縁化と「さまざまな2世経験」「マージナルな2世経験」の言語化を阻むもの、などなど。
ここまでグルグルぐるぐると論じてきたわけですが、これまでの議論は一つの問いに集約されることにお気づきの方もいるかもしれません。それは「宗教(2世)にたいして私たちの社会はどのような価値基準のもとに向き合っているのか」というものです。
前回の記事で論じきれなかった地点はここですね。ようやくたどり着きました。

上記をべつの言葉で述べなおすなら、「宗教2世」とはどのような問題か、ではなく、「宗教2世」を「問題」とする私たち社会はどのような観点からそれを「問題」と見なしているか、という問いになります。
この点を具体的にイメージしてもらう上で参考になるのは、ここまで何度か言及させていただいたダッヂ丼平さんの記事です。同記事のなかでダッヂさんは、子どもの権利保護を求める荻上さんらの主張が、結局のところ多数派による価値観の押し付けと変わらないものとなっている点について、エホバの証人2世の立場から次のように論じられています。

マイナーな宗教を教えられて育った人間として、「うちの子はまだサンタクロースを信じてます」というSNSの幸せな投稿が絶対に宗教的虐待だとみなされることがないことは身にしみてわかっている。/(中略)/だけど子どものころにエホバ神以外への崇拝はすべて偶像崇拝だと教えられ、成長してそれを克服するために一時は新無神論に傾倒した人間の目からすれば、マジョリティの価値観にべったりとはりついている霊的・宗教的価値は試薬で色をつけたようにはっきりとよく見える。/でもそれらが荻上さんが押し付けてはいけないと主張する「信仰」だとか「特定の価値観」として有徴化されることはぜったいにない。

マジョリティの価値観は有徴化されない。
マイノリティに関する諸研究に触れたことのある人にはある程度共有された知見かと思いますが、これと同型の経験は、社会規範から距離のある宗教の「2世」にとってもわりと身近な実感としてあるわけです。

こうした「マジョリティの名指されなさ」についての分かりやすい説明として、ひとまず岸政彦先生の『断片的なものの社会学』から引用しておきます。

多数者とは何か、一般市民とは何かということを考えていて、いつも思うのは、それが「大きな構造のなかで、その存在を指し示せない/指し示されないようになっている」ということである。
 マイノリティは、「在日コリアン」「沖縄人」「障害者」「ゲイ」であると、いつも指差され、ラベルを貼られ、名指しをされる。しかしマジョリティは、同じように「日本人」「ナイチャー」「健常者」「ヘテロ」であると指差され、ラベルを貼られ、名指しをされることはない。だから、「在日コリアン」の対義語としては、便宜的に「日本人」が持ってこられるけれども、そもそもこの二つは同じ平面に並んで存在しているのではない。一方には色がついている。これに対し、他方に異なる色がついているのではない。こちらには、そもそも「色というものがない」のだ。(岸2015:170)

岸先生自身がこの記述を宗教(2世)にまで延長することに同意されるかはここでは問いません。また私自身、宗教者・「宗教2世」が日本社会において実際にマイノリティに該当するかどうかについても言及しません。
ただ「なにが有徴的なものとされるかは社会や共同体ごとに異なる」という人文書をそれなりに読んでいる人には共有されているはずの知見を、宗教という属性にたいして当てはめてみることは、そこまで否定されないと考えます。
たとえば、現在も市民の約75%がなんらかの宗教所属意識をもっているアメリカ社会においては(佐藤2023:167)、むしろ無神論者のほうが逸脱的であり、社会的なスティグマを経験して生きていると指摘した研究もあります(Smith 2011)。
このあたりは「宗教2世」という用語の分析的意義にも関わる話ですが、「宗教のある家に生まれた子ども」を特異な存在だとみなしている日本社会のほうにも、無条件には肯定できない何らかの想定が含まれているのではないか、と問うことは許されてもいいのではないでしょうか。

自らの立場を顧みることなく宗教を特異な信念としてしまう考え方は、ネット上の一部界隈で「現実教」とも呼ばれますが、やや毒の強い表現なので、本記事では「世俗中心主義」と呼んでおきます。

性的マイノリティの存在が認知されるなかでシスジェンダーやヘテロセクシャルといった属性が次第に可視化されたように、宗教(2世)をめぐる議論のなかで、いつか宗教をもっていること(=宗教者)とともに宗教をもっていないこと(=世俗者?)もひとつの属性として自覚される日が来ればいい。
なんてそんな日はたぶん来ないのですが、有徴化された宗教の「2世」としてはそんな未来を望んでしまいます。


宗教教育に介入する前に点検しておくべきこと

上記のような「宗教」から「社会」を照らし返すような視点は、宗教(研究)に長く関わっている人々にとってはある程度既知のものなのですが、「宗教2世=宗教被害者」という視角からは取りこぼされることが多いです。
世俗社会側の価値観を自覚的に問い直すというアプローチが「宗教2世」をめぐる議論にどのような視野をもたらすか、荻上さんらとも活動されている横道誠先生の宗教R-18指定論にふれることで簡単に確認しておきます。

横道 (中略)そもそも二一世紀の日本人の一般的価値観からすると、だいたいの宗教は偏ったことを教えてるわけなので、宗教自体を一八歳未満禁止とか二〇歳未満禁止にするべきじゃないかと思うんです
斎藤 宗教は一八禁(笑)、いいですね。
横道 はい。義務教育で、取り扱いに注意を要するということで、宗教一般の問題をもっとニュートラルにフラットに教え、一八や二〇歳を過ぎたら解禁して、どれか選んでください、選ばなくてもOKです、となるといいなと思っているんですけど、宗教界が賛成するわけがないので、実際には難しいことはわかっています。(横道編2023a:277)

この短い文章だけでも、ニュートラルな宗教教育とは何かや、宗教を「選ばない」とはどういうことか(*21)、「宗教一般」をどのように確定するか(前節参照)や、「宗教一般」を授業で教えることのできる教員をどのように養成するのか(*22)といった疑問がいくつも湧きますが、細かい話は置いておきます。

この提案の問題点について、リベラルの方々にも受け入れやすいのは「移民の宗教」の事例でしょう。
横道先生の議論に従うと、ハラル・フードや礼拝場所の確保といった点で配慮を求める在日ムスリムの児童にたいしても、学校教育現場での対応を一律に禁止することになるわけですね。それも「二一世紀の日本人の一般的価値観」からすると「偏って」いるという理由から、です。
私にはほとんど政府の同性婚反対論と変わらない論法にみえますが、他の方は違うのでしょうか。
議論が混乱するのは、難民・移民問題にも積極的にコミットされ、また直近でも金井真紀さんの『日本に住んでる世界のひと』に推薦コメントを寄せられた荻上さんが上記の提案を積極的に紹介していることです(⇒記事のリンクはこちら)。
そのせいで海外ルーツの子どもの人権にも配慮した提案だと思われた方もいるかもしれませんが、言ってることの中身は欧州の排外主義的な右派政党の支持者とほとんど変わらないわけで、なぜこうした主張を一部のリベラルな論者や版元が拡散に協力しているのか、私には理解がやや難しいです。(難民受け入れの条件に、「子どもに信仰継承しないこと」を追加したいということでしょうか。)

もちろん「移民の宗教」は、ホスト社会との関係によっては社会統合のリスクとしても議論されますが、避難所の提供や社会階層の上昇、市民スキルの獲得などの点で、正の機能を果たしているという指摘もあるわけです(高橋・白波瀬・星野2018:13-14)。
「宗教2世問題」の改善を目指すなら、社会通念から考えて宗教がどれほど「偏って」いるかという観点からだけでなく、信仰をもった移民(2世)にとってホスト社会側の価値観や宗教観がなんらかの生きづらさをもたらしているのではないかと問うことは、欠いてはならない作業であると考えます(*23)。

またこうした視点は、移民宗教に限るものではなく、新宗教にも延長することは重要です。
たとえば新宗教研究の文脈では、学校教育現場において特定の宗教的背景をもった子どもたちにどのような宗教上の配慮が必要かについて、イスラームだけでなく、エホバの証人・創価学会を事例に検討された塚田穂高先生の論文もあります。
同論文のなかで塚田先生は、偶像崇拝を拒否するエホバの証人の生徒にたいして国旗掲揚・国家斉唱を求めることの問題を、「『マジョリティは別に『宗教』的だとは思わないものだが、宗教的マイノリティにとっては『(他)宗教』的だと思われること』をどう扱うか、というラディカルな問いが突きつけられている」(塚田2022:48)と指摘しています。
前節でダッヂ丼平さんが述べられたことと同じベクトルの指摘といっていいでしょう。

もちろんこうした見解に対して、国旗・国歌は「日本人の一般的価値観」からすると「宗教」のシンボルではないので、特段の代替処置などを講じなくても信教の自由の侵害には当たらず、むしろ学校行事に積極的に参加しないエホバの証人のほうが「偏って」いると批判することも一つの見識です(*24)。
ただそうした判断に踏み込むまえに、個々の宗教の教義や実践が学校教育現場においてどのようなコンフリクトとして現れ、児童の生きづらさや居づらさとして経験されているかを問う作業は、「宗教2世」の「実態理解」にとって欠かせないと考えます。

この点に関連して、横道誠先生は『みんなの宗教2世問題』のなかで、「学校の廊下などにポスターが貼られて、そこに『宗教やカルト団体のことで困っている子、いませんか』などといった呼びかけが見られるようになったら、宗教2世の救済はだいぶ進展するはずだ」(横道編2023a:359-360)と述べられていますが、ここまでの議論を読まれた方なら、上記の提案が、すでに有徴化された宗教(2世)のさらなる有徴化につながりうる要望であることはご理解いただけるかと思います。
そんなポスターが貼られた廊下を歩く小学生時代の自分を想像してみましたが、なかなか嫌です。
宗教的虐待についての知識が広く共有されるとともに、そうした被害を防ぐための情報の配慮のある伝え方についても知見が蓄積されることが望ましいです。

念のためにお伝えしますが、上記の議論は、家庭の宗教教育に社会は一切介入してはいけないという話ではありません。
介入するにせよ、どの宗教の・どの生活上の局面に・どの程度・どういった根拠のもとに介入するかを、自明視されがちな日本の宗教文化がどのようにしてあるかをつねに問い返しつつ、具体的に見定めていく必要があるという話です(*25)。
介入する側の価値観を適切にスクリーニングせずに宗教教育に関する制度化がなされた場合、社会規範から距離のある宗教のもとに生まれた子供に不必要な生きづらさやレッテルを与えかねません。
なんだか当たり前のことを書いている気がしますが、「宗教」をめぐる議論になるとなぜかその当たり前がスルーされがちなので、くどいようですが指摘しておきます(*26)。


まとめ:「宗教2世」に対する同化アプローチと調整アプローチ

以上、チキラボのレスポンスや横道先生の新刊2点を主な題材として、「宗教2世」を「宗教被害者」としてのみ論じることの問題点をいくつかの角度から検討してきました。
さまざまな論点をグルグルと検討することで本記事は、「宗教2世」をめぐる社会問題の形成には、宗教教団や親、そしてその「2世」だけでなく、それを論じる社会もまた重要なアクターとして関わっている、という点を明らかにしようとしてきたつもりです。

記事を閉じるにあたって、これまで論じてきたことを、「宗教2世」に対する同化アプローチと調整アプローチという2つの観点を対比することで整理したいと思います。

「宗教2世」に対する同化アプローチとは、「宗教2世問題」をもっぱら教団と親に由来する問題と捉え、社会からの加害の要素を含まない、あるいは低く見積もる立場からの取り組みを指します。
宗教は偏った考え方であり、潜在的には社会のリスクと見なされるので、意識的にせよ無意識的にせよ、宗教2世は何らかの虐待にさらされた被害者であることが前提とされます。このアプローチにおいて宗教2世とは、マインド・コントロールされていて自分の意思をもたない現役信者と、自らの意志で恋愛や仕事や投票先を選択できる一般人のあいだにいる過渡的な存在と見なされるので、速やかな離脱を促すためにも、学校現場で特別の配慮をすることは求められません。
この立場において「宗教2世問題」の「解消」とは、宗教教団の思想や実践が少なくとも社会との接点においては「社会の枠内」に収まること、および宗教2世が標準的な一般人となることとされます。その達成にあたっては、宗教側に一方的な適応努力が求められ、解決困難な事例においては、教団の解散命令ふくめ、国家による介入が大きく認められます。

「宗教2世」に対する調整アプローチでは、「宗教2世」の生きづらさを、教団や親からの教育と一般社会の常識の「あいだ」や「ズレ」から発生するものと捉えます。教義によって正当化された体罰や過度な献金、自由な政党支持の困難といった問題は教団や親寄りの極に、就職差別や結婚差別といった問題は社会寄りの極に位置づけられます。
宗教的世界観は世俗社会から見て「偏ったもの」としてよりは「異なったもの」とされ、宗教2世であることは他の属性とともに尊重されるため、学校現場では代替措置を講じるなど、宗教上の配慮を行うことが求められます。
この立場において「宗教2世問題」の「解消」とは、宗教2世であるというだけで責任や権利、機会に不公平な差が出ないこととされ、その達成にあたっては社会側と宗教側双方の調整が求められます。解決困難な事例においては、教団への解散命令は否定されませんが、同化アプローチと比較して国家による介入は狭い範囲でしか認められません。

別の言い方をするならば、同化アプローチは「宗教2世」の一般社会への標準化(ノーマライゼーション)を目指す立場であり、調整アプローチは「無宗教」を含めた宗教的属性の公正な取り扱い(レリジャス・エクイティ?)を目指す立場と言えます。

お気づきの方もいるかと思いますが、上記の枠組みはそれぞれ、障害者運動における「医学モデル」と「社会モデル」の考え方を下敷きにしています(*27)。
ただ、障害学では多くの場合、医学モデルよりも社会モデルが望ましいものとされますが、本記事では同化アプローチよりも調整アプローチのほうが取り組みとして優れているとは提示しません。
解散命令請求が実際になされた過去の宗教法人の事例をみても分かる通り、日本の宗教史には調整アプローチでは対応しきれない被害や犯罪が厳としてあるからです。

また、調整アプローチは宗教と世俗を超越する視点に立たないために、どこまでの逸脱なら許容可能で、どこからが許容不可能かについて、アプローチ単体では示しきれないという難点も現時点で抱えています(*28)。
2つのアプローチを対比することの利点の一つは、過度に逸脱的な宗教団体への強権的な介入が避けられないことであるにせよ、そうした介入が「首相の判断」のような人治的な観点から(*29)ではなく、保護されるべき人権や利益同士の避けられない衝突の結果として(あるいは世俗社会の秩序を維持するためという究極的には基礎づけられない決断として)なされるべきでことを自覚しやすくする点にあります。

念のため書いておきます。
本記事では同化アプローチを大枠としては更新されるべきものとして論じたために、社会規範を内面化することで教義や親の教えからの離脱を果たした方々にとって受け入れがたい記述もあったかと思います。
この点は何度も繰り返して強調しますが、私自身は、その言葉でその人が救われるならその限りにおいて誰からも否定されるべきではないと考えています。マインド・コントロールにしろ、「宗教の残響」にしろ、その言葉であなた自身が救われるなら、誰に何を言われてもその言葉を手放す必要はありません。私が言うまでもないことですが。
あなたの苦しみは、他の誰でもないあなた自身のものです。教団側の理想化された言葉であってもなくとも、社会側の「カルト」批判言説に沿ったものであってもなくても、あなたの人生とともに、あなたの苦労や生きづらさを言葉にしてほしいです。

本記事で提案した調整アプローチが関わるのは、そうした意味づけ行為が宗教被害者自身の手もとを離れ、ほかの「宗教2世」の人生におよぶときです。
宗教組織からの離脱を希望する「2世」に対して、その選択が速やかになされることや、社会への適応あたって住居や教育機会、メンタルケアの提供が適切になされるべきことは調整アプローチも肯定しますが、それとともに、離脱しない「宗教2世」のことをマインド・コントロールや「宗教の残響」という言葉で有徴化しないことも同時に求めます。
保護されるべきは「宗教2世」の選択機会が適切に確保されることであって、「宗教2世」がどのような存在として社会から見なされるべきかは、被害者をはじめとした様々な「当事者」をくわえた社会的なコミュニケーションのなかで形づくられます。

等々、論じるべきことは多いですが、さすがに体力の限界が近づいてきたのでこのあたりで議論を終わります。
公開にあたって、幾人かの「当事者」の方々や、近接領域の専門的知識をもつ方々にチェックはいただきましたが、ここで提示した考えは正式なピアレビューを経たものではなく、あくまで素案的なものにすぎません。
今後の議論のなかで適宜修正されていくかと思いますが、「宗教2世」をめぐる議論の昨今の惨状を鑑みて、生煮えではありますが公開させていただきました。

本当はここから、「宗教2世」にとってのケアやリカバリーがあるのならそれはどのようにしてあるのかを調整アプローチの観点から考察することが目標だったのですが、さすがにそれは先を急ぎすぎかと思います。
今後とも議論にお付き合いいただけますと幸いです。

=====

公開にあたって、加藤匡人さん、ダッヂ丼平さん、TKMTさん、星野健一さん、ゆでたまご屋さんの各氏に本記事の草稿を読んでもらい、コメントをいただきました。ご指摘を反映しきれなかった箇所もありますが、それでも残る不備はあくまで私の責で、改善できたなら各氏のおかげです。心より御礼申し上げます。


【注】

*1:余談にはなりますが、本を読んだときになんだか言葉にならない思いがあふれてきた時は、その本をみんなで読む読書会が本当にオススメです。人数もそんなに多くなくていいです。『読書会の教室』によると、5人くらいが一番楽しいようです(竹田&田中2021:70)。

*2:先のnoteがどのように読まれたかについては、なんというかチキラボへの応答の巻き込みになるというか、「タサヤマ側についた」感を出してしまう文脈が発生しているので、好意的な反応は今回あまり引用しません。気になる方は、拙noteのURLである「https://note.com/girugamera/n/n51a415900c0f 」でツイッター検索してみてください。

*3:本記事の草稿を読んだダッヂ丼平さんから、ロバート・パットナムの『アメリカの恩寵』にも、自分と異なる宗教的背景をもった人が身近にどれだけいるかが、その人の宗教に対する態度決定に大きな影響をおよぼす「スーザンおばさん原理」という理論があるとご教示いただきました。

*4:この点、創価学会家庭に虐待がないという指摘ではありません。社会階層などの諸条件を統制したあとにも残る、日本の創価学会特有の家庭内虐待や不和と呼べるものがありうることは過去の記事(⇒リンク先の注2参照)でも指摘したことはあります。ただ、書籍『宗教2世』にあった「体罰を教団として強く勧めているわけではない宗教であったとしても、『宗教を理由とした体罰』が信者や家族のなかで行われる可能性はあり、それを体験した2世も間違いなくいる」(55頁)というあまりに一般的な指摘に特徴的なように、「宗教2世」一般に向けられたチキラボの分析は、それぞれの宗教家庭が持つ特有の困難を捉えがたいものにするだけでなく、宗教組織とそれ以外の組織集団内で起こる暴力の差異を指摘することさえ困難にする論理構造になっているところがあります(引用部の論理を徹底すると、1ケースでも虐待が報告された団体は規制の対象になり得てしまいます)。前回の記事で橋迫瑞穂先生がご指摘されていた点とも重なりますが、宗教的虐待への社会的ケアをより適切なものとするためにこそ、それぞれの教義や実践のもとにどのようなメカニズムや局面で加害が発生しうるかを、それぞれの「宗教2世」のライフコースに沿った視点のもとに具体的な知見を積み重ねることが、本課題の解決に向けた常道であると考えます。

*5:犯人の属性の報道にあたっては、せめてリベラル側はメディアに慎重さを求めてほしいです。もちろん犯行動機に当該属性が深く関わっていたのなら報道する意義はありますが、宮台教授の事件に関しては、2023年2月時点で不明です。在日コリアンの方々や部落出身者にたいして同様の報道があったなら厳重な抗議がなされていたはずですが、「宗教(2世)」になると問題がスルーされるどころか拡散に協力さえしている現状ははっきりいって異常だと考えます。

*6:私自身が本来すべきだった応答のかなりの部分は、エホバの証人2世のダッヂ丼平さんがすでに論じてくださっています。本論への賛否はべつとして、ぜひ読まれてほしい記事だと思います。(中学生の頃、君が代は歌わないと職員室まで「証言」しに行ったダッヂさんと、そんなダッヂさんに憲法20条をみせて、肩をたたきつつ受け止めた担任の先生のエピソードが心に残ります。)
子どもの権利をまもるために〜荻上チキ編著『宗教2世』の問題点〜|ダッヂ丼平(⇒リンクはこちら

*7:安倍元首相殺害事件以降の報道で典型的だったのは、朝日新聞デジタルに掲載された林香里先生の記事「新興宗教と女性 「信仰」通し搾取、社会の縮図」でしょうか。

*8:新宗教やスピリチュアリティにかかわる人々を剥奪理論から説明する議論の問題について、栗田英彦先生は横山茂雄先生との対談のなかで「スピリチュアリティで形作られている意味世界は実は表層で、その根底には剥奪された真の欲求がある、という議論の構造になっています」と指摘しています(2023:272)。

*9:「宗教2世」議論を巡って|soka youth media

*10:本記事を執筆中に、ほとんど同じ視点から新宗教の女性に関する言説を取り扱ったダッヂ丼平さんの記事「ジェンダーと『宗教2世問題』〜エホバの証人の例を中心に〜」が公開されました。合わせて読まれてほしいです。(⇒リンクはこちら

*11:「もし身近に、幅広い宗教の二世、三世体験について、安心して語り合える方がいらっしゃったら、リンク先の調査フォームをお送りいただけるとありがたいです。しっかり整理し、社会に届けたいと思います! #宗教二世 #宗教2世

*12:AERA dot.の記事では、アンケートの発案自体に、書籍『宗教2世』の担当編集者の方が関わっていたと語られています。
「教団は『信者の感情が傷つく』という言葉を盾に使うな」 荻上チキ(評論家)×菊池真理子(漫画家)が語る「宗教2世」問題とは|AERA dot.

*13:「締め切りが近くなってきました。何かしらの宗教二世に該当するという方は、ぜひこの連休にご回答いただければ幸いです。」

*14:ここまでの文章は、チキラボの回答により強く違和感をいだかれた回答者の方々にたいして、チキラボへのさらなる修正要求をおこなうことの自制を求めるものではありません。自身の協力した社会調査が、事前に説明されたものとは異なる目的のもとに利用されていると感じたならば、調査者にたいして対応を要求することは自然なことです。今後の議論の進展のなかで「宗教2世』当事者1,131人への実態調査」の問題のある利用が継続されるならば、アンケート結果から自身の回答分の削除要求をするGoogleフォームを立ち上げるなど、さらなる対応を検討されてもいいかもしれません。

*15:あまり個人的なことは書かない方がいいかと思って前回のnoteでは削除したのですが、私自身と信濃町本部の関係は、拙noteを読んで苦しい思いをされた方が思っているほど良好なものではありません。
2017年の年末、創価学会の選挙活動にともなう諸問題を批判的に検討した書籍を刊行したことがあるのですが、先方の準機関誌である『第三文明』にちゃんと批判記事を書かれています。記事の執筆者は母校である創価大学の後輩です。
あと近年の創価メディアで旺盛な執筆活動をされている佐藤優さんからも、2021年刊行の『希望の源泉・池田思想③』で、「提婆達多を見極める基準は何か」という議論の流れで、私の本に言及しつつ嫌味を言われています(佐藤2021:20-21)。提婆達多はキリスト教におけるユダのような存在で、ざっくりと「組織内の裏切り者」くらいのイメージですね。宗教組織本体からのプレッシャーのあるなしで言えば、私個人はどちらかといえば「ある側」に分類されるかなと思います(*16)。

*16:ただそれでも念のためにいっておくと、いくつかの留保をつけるならば、私自身は「納得している側」にカテゴライズされることを引き受けていいと思う文脈はあります。ただ私や私の周囲の「2世」の友人たちが納得しているものがあるとすれば、それは教団の教義や親の教えにではなく、そうした教義や実践をもった教団や親のもとに生まれた自分の人生に、です。このあたりについては、生まれ落ちた宗教組織の社会化の程度や、親のパーソナリティ等もかかわってくるので一概には言えませんが、これまで出会ったさまざまな友人たちやいろんな偶然のなかで、社会規範とは距離のある宗教のもとに生まれた自分の人生に、人生をかけて納得していったわけですね。
このあたりのニュアンスの違いが伝わるとは思っていないので、また別の機会に書きます。ただ、他者の人生に名前を与えるときは、くれぐれも慎重にしていただきたいとは思います。

*17:まったく別の話ですが、荻上さんらの書店イベントが行われた2日後の2023年1月15日、信濃町の公明党本部前で「つばさの党」代表の黒川敦彦氏を中心とした「創価学会解散デモ」が開催されました(⇒報道はたとえばこちらを参照)。安倍元首相殺害事件以降の流れのなか、陰謀論の影響を受けた右派による特定の宗教組織を対象とした過激な集団行動と、リベラルな価値観をもった人々による宗教をフェイクニュースやデマと同列に語るイベントが、ほとんど同じ時に開催される。2023年時点での日本の宗教言説状況を振り返るいつかのため、書き残しておきたいと思います。

*18:世界人権宣言(仮訳文)|外務省

*19:あくまで簡易的な指標ですが、主だった属性を国立国会図書館の所蔵資料検索にかけてみた結果は以下の通りです(2022年9月11日時点)。
・人種差別:検索結果 2,179件 / 図書 1,139件 / 雑誌記事 801件
・民族差別:検索結果 299件 / 図書 201件 / 雑誌記事 96件
・部落差別:検索結果 1,761件 / 図書 551件 / 雑誌記事 1,063件
・障害者差別:検索結果 1,082件 / 図書 150件 / 雑誌記事 867件
・性差別:検索結果 4,197件 / 図書 2,517件 / 雑誌記事 1,143件
・宗教差別:検索結果 12件 / 図書 7件 / 雑誌記事 3件
宗教差別と人種差別の件数と比べた場合、検索結果では約182倍、図書の数では約163倍の開きがあります。

*20:「同性愛は精神障害か依存症」自民会合で差別的文書配布 「性的少数者の正当化は家庭と社会を壊す」|東京新聞 TOKYO Web|2022年6月30日

*21:中田考先生が論考「普遍的問題としての宗教2世問題」のなかで、やや突き放すように述べられた「西洋近代宗教概念の矛盾」についての指摘は、おそらくこの点に関わると思います。「イスラームの理解では、真の神の崇拝以外は多神教であり、近代西欧が宗教とは対立するものとみなす無神論も、世俗主義、科学主義も多神教、偶像崇拝の一種の宗教になります」(中田2023:219)

*22:法人化した宗教に限っても、令和3年12月31日時点で日本には、包括宗教法人394、単位宗教法人179,558の、計179,952法人があります。(⇒宗教統計調査のリンクはこちら

*23:宗教規制に賛同する人たちにとって「厳格な政教分離=ライシテ」の国として好意的に言及されるフランスですが、そうしたライシテの論理が近年、カトリックの伝統を背景としたフランスのアイデンティティにむすびつけられた考え方や制度(「カト=ライシテ」)となることで、宗教的マイノリティにたいして抑圧的に働いているのではないか、という反省的な論点が浮上していることは、もっと知られていいかと思います(詳細は伊達聖伸先生の『ライシテから読む現代フランス』等参照)。

*24:特定の宗教的背景をもつ人にとっては侵害的行為であると感じる行事が、「当たり前のもの」とフレーミングされることで無化されるという事態は、教育現場における国歌斉唱・国旗掲揚にかぎりません。岡本亮輔先生は『宗教と日本人』のなかで、伝統や文化ということばで自明視されがちな地域社会における地鎮祭などの神道行事(=自治会神道)のはらむ問題を、「信仰なき実践」や「信仰なき所属」という視角のもとにその宗教性を捉えなおす試みをされています(岡本2021)。

*25:同様の指摘はこちら⇒

*26:家庭ではどのような宗教教育が許容されるのか/どのような宗教なら家庭で教育することが許容されるのかというテーマへの国家の介入を不用意な形で拡大することは、最悪の場合、出産が奨励される宗教とされない宗教を国家が選別するような事態を招きかねません。
こうした懸念は私にとって極端なものでしかありませんでしたが、立憲民主党の山井和則衆院議員による「合同結婚式までには解散命令請求が出されなければならない。もし遅れたら、合同結婚式を経て生まれた子供たちから『なぜ止めてくれなかったのか』ということになりかねない」という発言(⇒記事のリンクはこちら)は、実際にそのような選別的観点を背景にしたものとして、一部の旧統一教会の2世の方たちに届きました。旧統一教会が組織として行ってきた不法行為は厳正に糾弾しつつ、それと同時に、そうした宗教のもとに生まれた人たちの命を否定するような言葉は決して許容しない、そんな社会であってほしいと切に望みます。

*27:障害者運動には、障害を「障害者の体に宿るもの」とする考え方(=障害の医学モデル)と、「少数派の体と、その体を受け入れない社会との『間』に生じる摩擦こそが、障害である」とする考え方(=障害の社会モデル)の二つがあると熊谷晋一郎先生は論じられています(熊谷2020:18)。

*28:調整アプローチはどこかの時点で、「善い宗教とは何か」という宗教倫理学的な議論から補強される必要があります(が、昨今の状況のなかでは手をつけづらいと感じています)。この点、治療を求めるユーザーと社会環境の適応という観点から「善き治療とは何か」を考察された東畑開人さんの議論(東畑2023)は参考になります。

*29:「統一教会に解散命令請求がなされるべき理由は至極単純。一国の首相・政権与党の総裁が「一切の関係を断つ」と名言した"社会的に問題があると指摘される“宗教団体が公益法人として存在し続けることは道理が通らないからだ。」(⇒リンクはこちら


【参考】

岡本亮輔、2021、『宗教と日本人 葬式仏教からスピリチュアル文化まで』中央公論新社。
岸政彦、2015、『断片的なものの社会学』朝日出版社。
熊谷晋一郎、2020、『当事者研究 等身大の〈わたし〉の発見と回復』岩波書店。
佐藤清子、2023、「アメリカ 政教分離国家と宗教的市民」島薗進編『政治と宗教 統一教会問題と危機に直面する公共空間』岩波書店、167-200頁。
佐藤優、2021、『希望の源泉・池田思想③ 「法華経の智慧」を読む』第三文明社。
島薗進編、2023、『政治と宗教 統一教会問題と危機に直面する公共空間』岩波書店。
高橋典史、白波瀬達也、星野壮編、2018、『現代日本の宗教と多文化共生 移民と地域社会の関係性を探る』明石書店。
竹田信弥、田中佳祐、2021、『読書会の教室 本がつなげる新たな出会い 参加・開催・運営の方法』晶文社。
伊達聖伸、2018、『ライシテから読む現代フランス 政治と宗教のいま』岩波書店。
塚田穂高、2022、「学校現場で必要な宗教上の配慮について知っておきたいこと 多文化共生・自文化理解・教育の環境づくり」上越教育大学『「人間力」を育てる』上越教育大学出版会、39-57頁。
東畑開人、2023、「善き治療とは何か あるいは、イワシの頭に癒されていいのか」笠井清登ほか編『こころの支援と社会モデル トラウマインフォームドケア・組織変革・共同創造』金剛出版、28-39頁。
中田考、2023、「普遍的問題としての宗教2世問題」横道誠編『みんなの宗教2世問題』晶文社、213-222頁。
三木那由他、2022、『言葉の展望台』講談社。
望月遥加、2023、「”宗教問題”の死角 当事者の視点から」『情況』2023年冬号、情況出版、43-50頁。
横道誠編、2023a、『みんなの宗教2世問題』晶文社。
横道誠編、2023b、『信仰から解放されない子どもたち #宗教2世に信教の自由を』明石書店。
横山茂雄・栗田英彦、2023、「巻末対談:コンスピリチュアリティは「新しい」のか? 陰謀論の現在」横山茂雄ほか『コンスピリチュアリティ入門 スピリチュアルな人を陰謀論を信じやすいか』創元社、235-291頁。
ロバート・D・パットナム、デヴィッド・E・キャンベル、2019、『アメリカの恩寵 宗教は社会をいかに分かち、結びつけるのか』柏書房。
Smith, J. M, 2011, Becoming an atheist in America: Constructing identity and meaning from the rejection of theism, Sociology of Religion, 72(2), 215–237.

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