宗教2世を宗教被害者としてのみ論じることの問題について~荻上チキ編著『宗教2世』書評~

今回のnoteでは、荻上チキさん編著『宗教2世』の問題点をいくつか書いていきたいと思います。
本記事の執筆にあたっては、2022年の12月18日にオンラインで行った同書の読書会で出た参加者の感想も随時付記していきます。同読書会に参加されたのは、創価学会2世が私を含め6名と、世界平和統一家庭連合(以下、旧統一教会)2世が1名です。年齢は20代から40代で、全員男性。組織活動の程度や、信仰のあるなしについては幅がありますが、一人以外現役メンバーです。

『宗教2世』は2022年11月に太田出版から刊行された書籍です。
内容的にはざっくりと、①TBSラジオ「荻上チキ・Session」で特集された「シリーズ・宗教2世」の放送内容を増補したパートと、②「社会調査支援機構チキラボ」が行った「宗教2世」への大規模アンケート結果の分析と個々の自由記述欄の回答をまとめたパート、あとは補足資料的に③宗教2世を描いた諸作品の紹介と「宗教報道」の変遷を整理したパート、この3つに分類できるかと思います。

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同書について論じたいと思ったのは、先にふれたチキラボのアンケートの拡散に私が協力したから、という個人的な経緯があります。
さきにも軽く触れましたが、私は創価学会の3世で、創価学会の「政治参加」について研究している社会人大学院生です。
「宗教2世」は直接の研究テーマではないけれど、安倍元首相銃撃事件以降の報道には不穏なものを感じていたし、そこでの「宗教2世」の取り扱いにも違和感をもっていました。
そうしたとき、Twitterのタイムラインに荻上チキさんが「宗教2世」を対象としたアンケートを実施しているというツイートが流れてきて、そしてその趣旨に賛同できるものを感じたため、そのツイートをRTで拡散し、また私自身がアンケートに回答しました。

賛同できると思ったのは、現役信仰者を排除していない点、および伝統宗教の2世も対象としていた点です。
宗教を背景とした親からの虐待や、過度な献金による経済的貧困など、重要な課題であることはもちろんではありますが、「宗教2世」という人生にはそれ以外のさまざまな「生きづらさ」があります。そうした「生きづらさ」には「宗教被害者」としてだけではない声を聞き取る必要があると考えていました。
また「宗教2世」というテーマでなされる報道が、当然の前提として新宗教や「カルト」を対象としている点も、新宗教や「カルト」のもとに生まれた人間としてなんとなくの疎外感がありました。そうした報道姿勢は、伝統宗教の2世として生まれることの困難を視野から排除する点でも問題のあるものと感じていました。
そうしたときに、その両者への配慮を示した荻上チキさんのアンケート募集の投稿を望ましいものと感じ、また普段からさまざまなマイノリティの方々のための真摯な活動をされているチキラボの調査であるため、信頼して調査に回答し、拡散に協力をしました。

ただ、以前から荻上さんのラジオについての感想がいくつか流れてくるなかで不穏なものも感じていたのですが(⇒加藤匡人さんのツイート)、「これは問題があるのでは」という疑念が強まったのは、先のアンケートが書籍化されるという河村書店さんのツイートをみた時です。

まず、書籍の刊行がアンケート実施から2か月しか経っていない点、真面目な社会調査としてはさすがに性急すぎるように感じました。公開された書影に掲載された執筆陣のお名前や、「『信仰』という名の虐待。彼らはどうサバイブしたか?」や「『神様』よりも『助け』をください」という帯文は、「宗教2世」の奥行きのある理解を目指したものというよりは、「宗教被害者としての宗教2世」像を世の中に訴えるニュアンスをつよく受けました(現役信仰者も対象としていたのではなかったか?)。

上記の危惧のもと、チキラボ宛にアンケートについての問い合わせを行いましたが、その時は先方から丁寧な応答があったこともあり、まずは出た本を読んでからにしようと思い、それ以上の問い合わせを行うことは控えました。
そしていま『宗教2世』を読んだので、以下では同書の問題点について書いていこうと思います。

はじめに述べておきますが、荻上さんらの「宗教2世」問題への取り組み全体はきわめて重要なものであると考えています。読書会の感想でもその点についての疑義は一つも出ませんでしたし、ほとんどの方が心から敬意をもっていたと思います。とくに宗教を背景とした虐待へのケアは急務で、今回のアンケートを含めたご活動が適切な制度化に結びつくことを願っています。
ただ、今回上梓された『宗教2世』の内容は、「宗教2世」というテーマの議論を進めるうえでさまざまな課題のあるもので、当事者としても看過しえないものがありました。
本記事ではその問題点を整理することで、今回の調査をより実りのある議論につなげたいという意図のもとに公開しています。


●「宗教被害者」としてのみ「宗教2世」を語ることは、「宗教2世」の生きづらさを助長する

まず大枠の話をします。
「宗教2世」の話題が盛り上がっていた昨年の10月、わたしはTwitterに以下のような投稿をしました。

「よい宗教二世」と「わるい宗教二世」、宗教側メディアと社会側メディアでその中身は真逆だけど、自分たちのストーリーに合ったものだけが救済されて、合わないものは主要なコミュニケーションから除外されるというパターンか。とてもよくないと思います。

https://twitter.com/girugamera/status/1583800470929145856?s=20&t=yp2IfrXqcvYWTIOAK-YHpQ

「よい宗教二世」と「わるい宗教二世」を強く分離して論じてしまうことの問題は、そのどちらでもない「二世」がたくさんいるからです。所属元のマスター・ナラティブに違和感は感じているけれど脱会するほどでもない人を、メディア側が「あなたは宗教二世問題の当事者ではない」と拒絶する形になる。

https://twitter.com/girugamera/status/1584029611155148801?s=20&t=yp2IfrXqcvYWTIOAK-YHpQ

つまり生まれ落ちた宗教組織の物語から漏れ出た人が、社会の物語からも排除されるわけです。「宗教二世」の生きづらさの解消を目的としていたはずのメディアの言説が、宗教二世の生きづらさを構成する要因そのものとになる。

https://twitter.com/girugamera/status/1583800470929145856?s=20&t=yp2IfrXqcvYWTIOAK-YHpQ

ここでは「よい宗教2世」と「わるい宗教2世」という縦分けで論じていますが、先に触れた「宗教被害者としての2世」と「それだけではない宗教2世」の話も基本的には同じです。
荻上さんは本書について「多声的な本」と述べられていますが(336頁)、本書を読んでも、宗教教団や親から虐待を受けた「宗教被害者としての宗教2世」以外の像はあまり浮かんできません。
もちろん生まれ落ちた宗教組織にとくに問題を感じなかったという回答も収録されていましたが、そうした「声」の取扱いは相当程度に問題のあるものでした(詳細は後述)。

ただ、おそらくこの時点で、上記で私が何を問題としているのか分かっている人は多くはないと思います。
以下では、「宗教被害者」としてのみ「宗教2世」を論じることがいかなる問題を持つのかという話を中心にしつつ、本書『宗教2世』の問題点をいくつかの角度から論じていければと思います。


●「神は人間が作った」を信仰者とのコミュニケーションの冒頭にもってきてはいけない

ただなにから話せばいいか、というくらい、本書には問題が多いです。
そういうときは、「読んだときに最初に違和感をもった文章」からはじめるのが常道かと思います。
本書の冒頭、Session1-1で荻上さんが「人は、人に似せて、神を作った。/人は、世界に納得するために、神話を作った。」という詩のような文章のあとの箇所をひとまず引用します。

「神のために人がいるのではなく、人のために宗教が作られた。このことを忘れてはならない。人の幸福追求のための手段として設けられた宗教が、人を、とりわけ子どもを不幸にするような出来事が、相次いでいるならば。(原文ママ)そのような不具合は、改められなくてはならない」(19頁)

この点は読書会に参加された方の多くが指摘されていたのですが、脱会者だけではない現役信仰者も対象とした書籍の冒頭にこれをもってくるのはすごく問題があります。
ここは書籍の冒頭にあたるので、基本的に読者との共通了解となるべき指針やテーマのようなものを提示されているパートだと考えていいでしょう。
ただ、「神は人が作った」は信仰者との共通了解ではありません。ふつうに信仰者の信念の否定です
たとえるなら性的マイノリティを対象とした書籍の冒頭に「人類の性別が男性と女性しか存在しないのは事実である。このことを忘れてはならない」と書くようなものです。
もちろん信仰をもたない「宗教2世」のみを対象とした書籍であるならば問題は少ないですが(ゼロではないです)、現役信仰者も含んだ「宗教2世」の実態の解明を目的とした書籍の冒頭にこの見解を持ってくるのはやめた方がいいです。
「神が人を作った」という信念を持つ信仰者に対して、端的に失礼です。


●「理解者」より自覚的な反宗教主義者の方がマシ

ただ、やめた方がいいとはいいましたが、上記の言明が自覚的な宗教否定であったなら話は別です。

読書会の参加者からあった発言で興味深く、また私自身がそうだなと思ったのは「自覚的な反宗教主義者の発言はあまり不快には思わない」というものです。
これは外の人にとっては意外かもしれませんが、とくに社会的批判の多い宗教のもとにうまれた「2世」の場合、わりと理解しやすい感想です。

もちろん反宗教主義者の言葉の多くは、現役信仰者の信念や非脱会者の人生の一部を否定する内容を含むので、(とくにコミットメントの強い2世にとっては)基本的に快いものではないのですが、すくなくとも反宗教主義者はそのことに自覚的です。つまり、自分たちの言葉は宗教者の信念を否定していると、彼ら彼女らはちゃんと分かっています。
そしてこれはいいことなのか悪いことなのかは分からないのですが、そうした明確な宗教否定の言葉に、一部の「宗教2世」はわりと耐性があります。
これはそれぞれの宗教の教義に「無理解な外部からの迫害」についての物語がビルトインされているという事情もあれば、さまざまな社会からの批判に人生を通して慣れてしまったという経緯もあると思います。
要するに、多くの「宗教2世」にとって自覚的な反宗教的言明は対処が容易なのだと言えると思います。

ただ、おそらく荻上さんは自身を反宗教主義者とは見なされていないのではないでしょうか。
それは「宗教全般に対するレッテル貼りなどには反対の立場を取ること」(19頁)や「私は無宗教だが、信仰の自由を否定しない」(337頁)といった言葉から推察されるように、基本的には困難な「宗教2世」の人生に寄り添う理解者としてのポジションに立たれているのかなと思います。
率直にいえば、ここが一番キツイところでした。自分を理解者だと思っている人からなされる無理解な言動によって、傷ついたことがある人も少なくないと思います。

同様の指摘はこちら⇒


●「宗教2世」に対するマイクロアグレッション

この点、本書でも言及されていた「マイクロアグレッション」の議論を思い起こすと問題が分かりやすいかと思います。

マイクロアグレッションとは、周縁化された人々に対する、日常生活の中でおこなわれる些細な見下しや侮蔑の言動を指す概念です。
これはあからさまな差別やヘイトクライムと対比的に語られる概念で、微細な身振りや軽蔑的な視線などを含み、ときとしてそうした言動をなす人自身にも意識されていないがために「捉えがたい」ものとされています。

デラルド・ウィン・スーの『日常生活に埋め込まれたマイクロアグレッション』(明石書店)ではその事例として、ヨーロッパ中心主義的な歴史観のもとに語られた心理学史の授業(=有色人種の経験は普遍的な学術史を構成するものには値しない)や、そうした授業に抗議した黒人の学生に対する「落ち着きなさい」という教授の対応(=白人と違って黒人は理性的なコミュニケーションはできない)などが挙げられていますが、そうした言動は「受け手の自尊心を攻撃し、怒りと失望を引き起こし、精神的活力を枯渇させる」ものとされています(スー2020:35)。
自尊心をまもることに「感情的なエネルギー」が浪費されることで、授業を聞いて知識を得るという本来の目的を完遂できない。そうした不利益は、授業以外のさまざまな日常のコミュニケーションのなかにも潜んでいて、周縁化された人々は日々の生活を送るなかでメンタル面以外のさまざまな具体的不利益を被っていることが同書では論じられています。

マイクロアグレッションの対象となる属性について、同書ではなぜか「人種」「ジェンダー」「性的指向」と列挙する形で論じられているのですが、「宗教」もその攻撃対象となることは同書で引用された論文でも論じられている通りだと思います。
本記事にとって重要なのは、攻撃対象とされた人々にとって、マイクロアグレッションは明白な差別よりも対処がしづらいという指摘です。

「有色人種の人々に最も大きな脅威を与えるのは、例えばクー・クラックス・クランの団員やスキンヘッドの白人至上主義者ではなく、善意に満ちた平等主義の価値観に強く動機づけられ、自分自身の道徳性を信じ、自らをフェアで礼儀正しく、意識的な差別などけっしてしない人間だと考えているような人々なのだ」(スー2020:62)

明白な差別主義者なら「そういう人」として対処すればいいのだけれど、善意の人からなされる無理解な言動にはそれが善意であるだけにどう反応すればいいか困る。これは当事者ではない多くの人にも理解可能な指摘かなと思います。

もちろんベンジャミン・クリッツァーさんも論じられているように(⇒記事のリンクはこちら)、マイクロアグレッションという概念には「被害者意識」を加速させるきらいもあるので個人的には賛同しづらいところもあるのですが(被害を被害として受け取ることと、それはそれとして自分を肯定することは両方大事)、この点はひとまず置いておきます。
本記事で言いたいことは、本書『宗教2世』、および本調査をもとになされたその後の諸活動のなかで示された荻上さんの言動が、「宗教2世」に関する奥行きのある理解を欠いている、にもかかわらず基本的には善意である点に、自らを「宗教被害者」だけとしてはみなさない「宗教2世」が本書を読んだときに感じる困惑やしんどさの多くがある、という所にあります。

完璧に組織にコミットしている「2世」はひとまず置くとして、またそれが組織的な指示のもとになされた行為であるかどうかの判断も置くとして、報じられているような虐待や犯罪のケースが実際にあった/ありうることは新宗教・「カルト」の「2世」の多くは自分の人生を通して知っているのですが、それだけではない様々な日々が自分や周囲の「2世」にあったことも同時に知っています。
そうした自分たち「宗教2世」の様々な人生を、「宗教被害者」という観点からのみ政府や世の中に訴える荻上さんらの活動をみるにつけ心に思い浮かぶ言葉はあるのですが、しかし実際の被害者とともに語る荻上さんらが真摯で善意であるがゆえに、幾百の言葉を飲み込み続けた日々だったように思います。

宗教者、反宗教主義者、理解者。
この3者関係について、やや硬い言い方をすれば、宗教的信念の真偽や当否をめぐる言語コミュニケーションという次元において、宗教者と反宗教主義者は同じ位相にいるといえますが(もちろん立ち位置は正反対として)、理解者は一段高みにいながら優しいまなざしとともに見下ろしている、という構図を想像していただければと思います。
もっとやわらかく言えば、反宗教主義者はこちらの目を見ながら憎しみや侮蔑の感情とともに罵ってくれるのですが、理解者はこちらの話にうんうんと頷きながらも、私たちの目ではなく「心の中」にあるはずの「本心」に向けて、いつか騙されていることに気づいてくれるはずという慈愛のこもったまなざしのもとに静かに寄り添ってくれる、というイメージになるかと思います。
なんというか、寄り添いとかは不要です。まずはちゃんと話を聞いたほうがいいと思います。


●当事者とのコミュニケーションを困難にするもの

この「ちゃんと話を聞く」や「当事者のリアリティをそれとして受け取る」という対応は、なんらかの生きづらさを抱えた当事者のケアを考えるときの最初の一歩というか、ゴールではないにせよ彼ら彼女らに向き合うときの根幹にあるべき態度の一つとはいえると思います。
ただ、「宗教2世」というテーマではこの一歩を難しくする障壁が存在します。マインド・コントロール(論)がそれです。本書でも、このテーマで有名な西田公昭先生が執筆者に名を連ねています。

本書の記述に沿って整理すると、マインド・コントロールとは「意志決定を操作されて支配を受ける」ことであり(75頁)、この操作を受けることで意識決定の装置である「ビリーフ・システム」が変容することで組織にとって都合のいい行動をするようになり(77頁)、アイデンティティが「没個性化」するようになる(78頁)とされています。
西田先生から上記のような説明を受けて、荻上さんはつぎのような質問をされています。

「なるほど。たとえば現代社会では、自分の人生の主役は自分であり、この社会は人の上に人を作らない民主主義国家であると学びます。しかしビリーフ・システムが書き換えられれば、自分の人生の主役は自分ではなく、神や教祖や教団となる。あるいは、世界は法の支配によるものではなく、神の意志や聖典に書かれた真理によって成り立つものである。このような価値観や世界観を育てられていくということでしょうか?」(77頁)

ほとんど自律的意志や近代社会一般に反するものとして「宗教」というシステムが捉えられているような印象を受けますが、本記事ではマインド・コントロール論の妥当性については詳論しません。
ただ、上記のような観点のもとに「宗教2世」を眺めたとき、「私は教団によってマインド・コントロールされていた」という語り以外の当事者の言葉を受け取りづらくなるのではないか、と指摘することぐらいは許されるかなと思います。
マインド・コントロール論は、「宗教被害者」以外の「宗教2世」とのコミュニケーションを困難にする効果をもつ「ビリーフ・システム」ではないか、という話ですね(*注1)。

まぁこの件は一旦置いておきます。


●マインド・コントロール論をめぐる論争とその決着

このマインド・コントロール論について、じつは社会心理学・臨床心理者と宗教研究・宗教社会学者のあいだでちょっとした論争がありました。
学術だけでなく法廷での争いも巻き込んだこのいざこざは、どの書籍や論文に言及するかの時点で詳しい人には「あぁそっち側か」という感想を抱かれてしまうくらいにこじれた論点で、正直触れるのが難しいです。
ざっくり説明すると、当初マインド・コントロール論に批判的だった宗教研究・宗教社会学界隈ですが、統一教会に対する「青春を返せ訴訟」の際に、「騙されて入信した」という元信者の論拠を否定する文脈でマインド・コントロール論批判の論文を統一教会側に使用されることで、原告側弁護士から痛烈に批判されてしまうようになった、という経緯になります(伊藤2004)。
教団の活動を正当化する宣伝に論文が利用された研究者の方から、実際にそのせいで脱会した元信者との関係が切れてしまい、統一教会の研究を継続できなくなった、などの話を伺ったこともあります。

だからといって学術的な妥当性という観点を研究が放棄していいはずないだろうと他分野の方からは思われると推察しますが、現実的な被害者がいる事例なので、自分の主張の政治的効果に敏感になるという対応も理解できるところもないこともないというか、そう思う日も人生のどこかでないこともない、と思う人もどこかにいるかもしれませんし、いないかもしれません。

『宗教2世』の執筆者の一人である櫻井義秀先生も、1996年の論文ではマインド・コントロール論について「人間の宗教的行為、宗教集団の多面性を理解する上で力がない」(櫻井1996:94)として批判的に論じられていましたが、上記の経緯を経て、2010年に上梓された『統一教会』では「マインド・コントロールと呼ぶことが可能な情報、感情、行動、環境の統制のもとで、加入者は教団が求める信者の認知・情動のパターンを身につけていく」(櫻井・中西2010:xiv)と述べられるなど、立場を大きく修正されています。

マインド・コントロール論についての認否は、学術的な妥当性とは別のところで、「カルト」に対する論者の政治的な立場を示す符丁のようなものとして扱われるようになったわけです。


●マインド・コントロール論の観点から「宗教2世」一般を論じることについて

この点、もともと学術的な妥当性を離れたところで成立している概念なら、「宗教2世」の生きる現実の多様さにこだわる本記事の批判対象にならないのではないか、という反論はありうるかなと思います。
荻上さんらは自らのイデオロギー的な立場を示したにすぎず、それは「宗教被害者」以外の「2世」もいるというあなたたちの立場とはかかわりなく尊重されるのではないか、という議論です。

ただ本書『宗教2世』の問題は、当事者の自律的意志を否定してしまう側面もあるために、たとえ採用するにせよ慎重な取り扱いが求められるマインド・コントロール論を、伝統教団の子供を含んだ「宗教2世」一般に当てはめて論じたところにあります。
これ、じつはかなりすごい主張です。
たとえば西田先生のインタビューを収録した次のSessionで、荻上さんは以下のように述べられています。

「S1-4ではマインド・コントロールを取り扱った。それは、主として、新規の信者獲得や信者維持のための手法として説明されていた。一方、生まれながらの2世信者の宗教教育、および脱会の阻止においても、マインド・コントロールというテーマは重要であると考えられる」(106頁)

マインド・コントロールというテーマを、個別的な「カルト」ではなく「宗教2世」一般を対象に、また「信者」の獲得から維持、教育、脱会阻止というほぼ組織活動全般ともいえるほど広い範囲にわたって適用されようとしていることがみてとれると思います。
「宗教2世」一般を研究対象としている人、私はほとんど思い当たらないので(個別の教団の信仰継承を研究している人はいる)この点は見過ごされるかもしれませんが、伝統教団を含んだ「宗教2世」一般をマインド・コントロール論の観点から論じた真面目な論説を、しょうじき私は読んだことがありません。
この点、かなり真剣に問題だと考えています。

一応言っておくと、西田先生も『マインド・コントロールとは何か』では、マインド・コントロール概念を「破壊的カルト」に限定して論じた方がいいと述べられています(西田1995:8)。
またマインド・コントロール論を統一教会という個別のケースに対して部分的に受容した櫻井先生も、『統一教会』のなかで次のように書かれています。

「カルトや宗教マイノリティに対して差別的な概念であるか否か、カルトの信者はマインド・コントロールされたのか、自発的に信仰を選び取ったのかといった二者択一の議論は、学問的水準としては時代遅れだ。いずれにせよ、『自由意思の有無』や『絶対に逆らえない心理操作』を実証することは不可能であり、なおかつ、どちらも程度問題にすぎないのだから、これらを抽象的な理論レベルにおいて討議するよりも、個別教団ごとの事例に則して実態はどうだったのかを明らかにする方が有益である」(櫻井・中西2010:15ー16)

つまり同概念の代表的な論者と、カルト研究の第一人者の両方が、具体的な教団を離れてマインド・コントロール論を適用することに慎重ではあるわけです。
また、これはマインド・コントロール論に限定しているものではありませんが、「子宮系」のご研究で知られる橋迫瑞穂先生も、チキラボの分析が教団別ではなく「宗教2世」一般にたいしてなされていることの問題を指摘されていました(⇒ツイートはこちら)。

念のために述べておきますが、洗脳論にしろ、その後継であるマインド・コントロール論にしろ、「カルト」に入信した信仰者に対するパターナリスティックな介入を正当化するための理論的根拠として受容された側面があることはおさえておく必要があるかなと思います(渡邊2002)。
入信したのが本人の自律的意志によるならば、当人に対する強制的な脱会活動は「信教の自由」の侵害にあたるわけですが、もし入信過程において自律的意志がなんらかの理由により正常に働いていなかったのであれば、当人への強権的介入も基本的人権の侵害に当たらない、という話ですね。
これ自体は理屈としては成立しているわけですが、この理屈がすべての団体に即座に適用されるならば「信教の自由」もなにも達成されないわけで、採用するにせよ、せめてその運用に当たっては個別教団事の厳密な実態調査が求められるのは櫻井先生のご指摘された通りです。
荻上さんらの議論がなぜその点を欠いて「宗教2世」一般へと拡大されるに至ったか、理解に苦しみます。

もちろん、このあたりは書籍化に2カ月しかなかったことによる疎漏として抒情酌量を求めるご意見もあるかと思います。
ただ刊行後のご活動で、「宗教参加をR-18指定にしてほしい」という横道誠さんの見解を肯定的に論じられている記事等を鑑みても(⇒記事のリンクはこちら)、「カルト」ではなく「宗教2世」一般に向けた主張をその後も意識的に継続されていると理解したほうが、荻上さんらの見解に沿うのかなと思います。

「宗教2世」一般にマインド・コントロール論を適用すること。
この点、もともと宗教一般に対するイメージが悪く、旧統一教会と安倍元首相殺害という衝撃的な事件から続くご活動であるために、あるいはそもそも「宗教2世」一般を対象とした議論が蓄積されていないために、どこが問題なのかが私ふくめて依然不明瞭なところはあるのですが、宗教教育に関わるご発言含め、「極端」どころではないというか、すくなくとも明確に「信教の自由」に抵触する主張をされていると認識された方がいいかなと思います。


●「宗教の残響」について①:宗教的信念をもつことを薬物依存の観点から論じることの問題

この「『宗教2世』とのコミュニケーションを困難にするもの」という論点をもうすこし深堀りしていきます。

本書には「チキラボ1131人実態把握調査レポート」という項目で、当事者たちの声が多数収録されています。「宗教2世」という枠組みでなされた調査がそもそも貴重であり、そこで紹介された様々な「宗教2世」の経験談は、上記でふれたような問題があるにせよ大変重要で、今後の議論に活かされてほしいと考えます。
(とくに「宗教を理由にした差別や理不尽な対応」(70-73頁)や、「宗教2世が社会に求めること」(160-163頁)、性差別構造についての回答全般(199-207頁)などは、個人的にも広く読まれてほしいなと思います。)

ただ、6つある同項目の最後「チキラボ1131人実態把握調査レポート⑥ 2世たちの、その後」で提示された「宗教の残響」という概念には深刻な問題があります。
ひとまず同概念を紹介した箇所を引用します。

「宗教2世は、家族や信者コミュニティから、集団的、継続的、一貫的な仕方で、「特定の信念」(ビリーフ・システム)や「思考の型」(スキーマ)を、意図的に教育されることになる。そこで築かれた信念、態度、価値観、慣習などは、「脱会」を宣言すれば、すぐさま失われるというものではない。脱会してなお、さまざまな信念や態度が残り続けること。そのことを本書では、「宗教の残響」と呼んでいる。」(284頁)

また、そうした「ビリーフ・システム」や「スキーマ」などからなる「世界観への執着」については、「依存症研究」を参照しつつ次のように説明されています。

「世界観への執着を取り除くことは、骨の折れる作業であることは想像できる。依存症研究の文脈では、買い物やセックスへの依存を「行動依存」、たばこや酒、薬物などへの依存を「物質依存」と区別するが、宗教伝承は、特定の世界観やコミュニティへの依存状態を作り上げる。特定の信念に対し、精神的な依存をおこなっている場合もまた、認知行動療法やスキーマ療法などのセラピーが必要となるが、心療内科などへの心理的距離が一般に遠い状況では、その改善も重要な課題となるだろう」(286頁)

マインド・コントロール論に触れた時にはスルーしましたが、「ビリーフ・システム」や「スキーマ」といった用語は、一見中立的な言葉にみえて、文脈によってはかなりの程度その概念の適用先を他者化するものであることはまず意識されてほしいです(⇒宗教2世の他者化)。
安易な比較はできるだけ慎むべきですが、たとえばマイノリティ研究の文脈で「調査対象者は、地域の朝鮮学校において自らが在日朝鮮人であるというビリーフ・システムを形成され~」といった表現はふつうされませんよね。
このような用語を宗教に対して適用するということが果たして妥当なのかについては、改めて慎重に検討すべきではないでしょうか(*注2)。

また、Session1-2で櫻井先生も述べられているように、日本も世界もほとんどの宗教者は親からの信仰を受け継いでいるのであって、強制などによらないのであれば、「宗教2世」というあり方は宗教者の「ノーマルなかたち」です(23頁)。
その意味で、宗教者が宗教的信念や宗教的態度を持つことは、ほとんどトートロジーというか当たり前のことなのですが、本書ではとくに「カルト」などの限定もされずに・「宗教2世」一般が身に付けることになった信念や態度を「世界観への執着=宗教の残響」と呼んだうえで・薬物やセックスの「依存症」と並置する形で語られていることが確認できます。
ここ、おそらくご本人たちが認識されているよりもすごい主張をされていると思います。

先に触れたように、荻上さんは本書の冒頭で「宗教全般に対するレッテル貼りなどには反対の立場」と書かれています(19頁)。
またアンケート結果をまとめた調査資料「『宗教2世』当事者1,131人への実態調査」の冒頭では、「なお、同データを持って、宗教2世、及び宗教全般に対するスティグマを強化するようなデータ利用は控える必要がある」と記載されています。
ただ、本書で提唱された「宗教の残響」という概念がどのような意味で宗教全般へのレッテル張りやスティグマを強化するものではないのか、私には理解ができません。

つまりこの概念が人口に膾炙したとき、「宗教2世」は友人との日常会話のなかで、次のような言葉をむけられる可能性につねに晒されるわけです。
「え、お前のそれ『宗教の残響』じゃね?」という。

(というか「宗教伝承は、特定の世界観やコミュニティへの依存状態を作り上げる」という文章の限定されなさ感、ちょっとさすがにビックリしてしまいました。さすがに普遍的主張すぎるように思います。)


●「宗教の残響」について②:出自を全否定することが求められる

ただ、上記はあくまで定義に関するものです。概念の内実は、その概念がどのような対象に実際に適用されたかで判断する必要があるでしょう。

というわけでこの「宗教の残響」という枠組みのもとにどのような当事者の声が紹介されたかを見ていきたいのですが、どちらかというと私はこの紹介のされ方のほうに問題を感じています。
調査レポート⑥の「価値観や世界観の『残響』」という項目に収録された当事者の声を引用します。

「仏教系の新興宗教だったため、仏教の考え方が身に付いているなと感じることが多々あるが、それ自体は悪いことではないと思っています。」(295頁)

同項目には、宗教活動に由来すると考えられる虐待やPTSDの経験談も収録されていて、長く尾を引くそれぞれの傷に辛い気持ちになるのですが、上記の声はそうした語りとは異なっているように感じます。どこかスッキリされているというか、自身と教団・親の教えとの距離を冷静に眺められているような印象を受けました。この方が現役の方なのかすでに退会された方なのかは判然としないのですが、特定の「宗教」のもとに生まれた「2世」の人生の受け止め方として特別視されるような何かを私は感じません。

ただ、荻上さんらのチームのもとでは、上記のような語りさえ(「依存症」と同様なものとして見なされる)「宗教」が「残響」していると判断されてしまう。
つまり、「宗教2世」が荻上さんらの前でしゃべる時、いまの自分に「宗教」が「残響」していないことを証明するためには、生まれ育った世界で見聞きしたものを「それ自体悪いものであった」と明言する必要があるわけですよね。
ちょっと残酷すぎるように感じます。

もちろん上記の経験談で言及された「仏教の考え方」の中身はわかりません。
日本の仏教系「新興宗教」なので、おそらくは大乗仏教由来のなにかでしょうか。仮にそうだとしたら、ハンセン病を「前世の悪業のせい」と見なすような現代では許容できない考えである可能性もありますが、仏教由来とされるもののなかにはそれ以外にもふつうに流通しているものがたくさんたくさんあります。
それらの詳細を聞き取らずに(あるいは読み手に明らかにせずに)「宗教の残響」というカテゴリーに収録することはさすがに暴力的すぎます。

はっきりお伝えしますが、「宗教の残響」概念を提唱されたことは宗教者に対する明白な差別であり、不当なラベリングです。「『宗教2世』当事者の実態調査アンケート」の趣旨に明確に反するものであり、厳密に限定されたものに修正されるか、撤回されることを望みます。

*またこの点、荻上さん以外の執筆者の方にも伺います。
Session1-5以降、「実際の当事者の声」の紹介に入るたびに「あくまでも宗教2世当事者が教団内で見聞きしたものであり、共著者らの見解とは異なる」という但し書きが記載されているかと思います。
訴訟リスクへの配慮とも解釈できる箇所ですが、(教団や親の望むストーリーになじめなかった当事者たちが、頼った先であるチキラボからも切り離されたようなニュアンスを受けるので正直あまりいい印象を受けない文章なのですが、)このパートにしか上記の但し書きが掲載されていないということは、「宗教の残響」概念に他の共著者の方々は全員賛同しているという理解でよろしいでしょうか。
尊敬する先生方やライターの方もいらっしゃるので信じがたいのですが、もし同概念を「宗教2世」一般に適用することの問題についての本記事の危惧に一部でもご賛同いただけるなら、当事者へのさらなる加害に組されないよう、なんらかの真摯なご対応をご検討いただけることを切に望みます。


●「結婚の制限」か、結婚差別か

最後にもう一点だけ「当事者の声」項目についての問題を指摘します。
私自身が深刻な違和感を持ったのは、「Session1-7 チキラボ1131人実態把握調査レポート③ 信仰による性愛禁止の実態/2世が社会に求めること」における回答の分類のされ方です。
さきほど触れた「宗教2世が社会に求めること」(160-163頁)含め、同項目には恋愛や友人関係の「制限」についての重要な語りがさまざま紹介されているのですが、「結婚の制限」という項目に収録された以下の語りに、私は読む手が止まりました。

「『同じ宗教の人と結婚した方が楽』ということは言われていた。また、ネットで自分の宗教の評判を知り、自分の意思で結婚できるのか怖くなった。」(158頁)

この語りにある「言われていた」という受動的な表現や、「自分の意思でできるのか」という不安の表現は、教団や家族からの「制限」とも解釈可能です。
ただ社会からの「評判」にふれている点をふまえても、この語りには教団や親からの性規制だけに留まらない、さまざまなニュアンスが含まれているように感じます。

というのも、こうした語りは創価学会でもありふれているからです。「結婚相手を折伏しましょう」的なパワープレイ系の「指導」もありますが、相手の親に反対された、破談になった系のエピソードもたくさんあります。多くの場合は、相手・その親・自分の親等の間でどうにかやりくりしているのが現状です。
安易な比較はできるだけ控える必要がありますが、たとえば部落出身でさまざまな苦労を経験された方が、自分の子供に対して「外の人と結婚すると苦労するよ」と語ることは理解可能ですし、それを子供に対する「結婚の制限」とワーディングする研究者はいないでしょう。
すくなくとも、こうした分類の前にもうすこし丁寧な聞き取りが必要とされる証言ではないかと考えます。

結婚差別の社会学』(勁草書房)に帯文を寄せられたこともある荻上さんが、ともすれば特定の属性にたいする社会からの差別ともとれる証言に対して、詳細な聞き取り抜きに、片側にのみ責任を負わせるような議論を展開されたことの意味を私は真剣に考えています。


●教団や親からの加害と、社会からの加害

ただ、念のために書いておきますが、本記事の議論は、「宗教2世」の方ご自身が、自らの経験を「マインド・コントロール」や「宗教の残響」「結婚の制限」という言葉で意味づけることを批判することは意図していません。
社会的ケアの文脈において、そうした当事者たちの意味づけ行為がリカバリー過程のどの段階に位置づけられるのかは慎重に検討されることを望みますが、私自身は、その言葉でその人が救われるならその限りにおいて誰からも否定されるべきではないと考えています。
自分の傷は自分のものです。誰にも邪魔されず、自身の人生のなかで静かに言葉にしていく権利が誰にでもあります。私が言うまでもないことですが。

ただ本記事では、そうして再獲得された自己物語が、社会や、あるいはいまだ脱会していない「宗教2世」にむけて語りはじめたときに起こりうる、とても悲しい事態があることも書いておきたいです。

これまで私が執拗に論じてきたのは、また読書会の参加者の多くからもあったのは、社会規範から距離のある宗教のもとに生まれた「2世」の生きづらさには、教団や親からの「加害」由来のものとともに、社会からの「加害」由来のものもあるという事実です。

同様の指摘はこちら⇒

「宗教被害者」や「宗教虐待」というフレーズが世に知られることでようやく言葉にできるようになった経験があることは本当に本当に切実で重要です。
ただ、社会からの「加害」が適切に言語化されないまま、またより問題のあるパターンとして、日本社会に潜在する宗教嫌悪まで内面化されて自己の再形成がなされた場合、被害者であったはずの「宗教2世」が他の「宗教2世」への加害者として振舞ってしまうことが時として起こります。

具体的なお名前を挙げることは控えますが、旧統一教会のメンバーであることが雇い主の知る所となったために勤務先を解雇された、という自身の経験をSNS上に投稿された「2世」の方がいらっしゃいました。
痛ましいお話だと思いますが、気になったのは、その方が上記の経験をすべて「統一教会を信じたため」であると総括されていた点です。

おそらくはそれ以外にも当該教団との間でさまざまな軋轢があったのだと推察しますが、上記の経験談に関していえば宗教的信条を理由とした解雇であり、労働上の差別的取扱いに他ならないと思います。
(雇い主に知られたのも、服務規律に違反して就業時間内に布教活動を行った等ではなく、ただ教団関係の持ち物をカバンに入れているところを見られた、というもの)

本来は社会からの加害であるはずの経験が、適切に言語化されないがために、すでに流通している「教団からの加害」フレームで語られてしまう。とても悲しい話だと思います。

同様の指摘はこちら⇒
https://twitter.com/4uz3ch4OgUly8Wg/status/1609011822652260357?s=20&t=bVE9kaU85eGgPU6ZwArlIA


●「宗教2世」一般ではなく、「それぞれの宗教2世経験」の言語化を

もちろんこの点、とても繊細な問題であることは承知しています。

一般論として、当人に対する親やその教団の関係が加害に他ならなかったのなら、親やその教団に悪意や嫌悪感を抱くのは当たり前の感情で、ときとしてその感情が未だ脱会していない現役メンバーに向けられることも理解可能です。

ただ本書『宗教2世』でも指摘されていたように、それぞれの被害経験は、個別の親というファクターからくる差異が多々あるため、どこまでを教団全体の問題として批判すべきかはそれぞれ個別に検討する必要がありますし(23-24頁)、当該教団全体の問題であることが立証できたとしても、つぎにその被害経験を「宗教2世」一般の問題として語りなおそうとされるときにはまた別の手順が必要になることも、宗教被害者の方の経験が壮絶で切実であるとして、どうか分かっていただきたい所です。

簡単にいえば、私が「創価学会の家に生まれてめっちゃ大変だった」と言えたとして、その経験だけでエホバの証人2世の方に「あなたもうちと同じで大変でしたよね」と安直に語りかけるのはNGというか、一旦待とうという話です。
(そもそも創価学会とエホバの証人にしろ、教団と他の教団を比較することはどのような意味で適切なのかや、そこに暴力性はないのかといった観点は、一度は問われてほしい問題です。)

これは被害にあわれた方の経験を、対親・対教団との間で個別化あるいは自己責任化すべきだという議論ではないことを分かってほしいです。
さきにも触れましたが、橋迫瑞穂先生のツイートはこのあたりにとくに関係してくるご指摘かなと思います。

献金問題にしろ、ジェンダー問題にしろ、選挙活動にしろ、それぞれ個々の教団のどこにどういった問題があるかは、学術的水準にバラつきはあるにせよ、ある程度の蓄積はすでにあります。
今回のチキラボの調査はSNSを介したスノーボールサンプリングであるわけで、データの性質上、「宗教2世は宗教被害者である」や「宗教伝承は依存状態を作り出す」といったような強い主張を提示される方向ではなく、すでに指摘されている個々の教団の問題点の内実をより豊富に(あるいはその差異をよりクリアに)される方向にご活用された方が、より問題のすくない議論ができたのではないかというお話だと思います。
「宗教2世」一般について論じるのは、そうした「それぞれの2世経験」が語られた先、個別事例の検討を積み重ねた先の話でしょう。

さきほども触れましたが、本来は社会からの加害である経験が「宗教被害」の文脈で語られてしまったり、またこれは界隈のあるあるなのですが、社会規範からの逸脱度の強い宗教から離脱したあと、さらに同程度に逸脱的な宗教や集団への加入を繰り返してしまう人がいるのは、「宗教2世」の人生を受け止めるに足る、適切な物語の不在の影響も大きいと私は思います。
深刻な宗教虐待への社会的ケアの整備を進めるとともに、そうした「宗教2世」の「さまざまさ」を受け止めるに足る議論の厚みを、宗教側と社会側の間で構築していくことも重要だと私は考えます。


●ひとまずの終わりに

本記事では荻上チキさん編著『宗教2世』の問題をいくつか論じてきました。
私自身が戦後日本で勢力を拡大した新宗教の3世なので、とくに伝統宗教や外来宗教の「2世」の方々の実感とは遠い記述も多かったのではないかと思います。
適宜ご指摘いただけるとありがたいです。

そもそも「宗教2世」という対象に対する研究書やルポや漫画がすくないため、本記事で書いたことは、多くの方に実感のわきづらい内容が大半だったかもしれません(*注3)。
ただ、取り扱った話題はさておき、指摘したこと自体は「調査対象者の立場を尊重しよう」とか、「よく知らないテーマの場合は調査の前にアンケート内容をチェックしてもらおう」といった、社会調査法の授業で習うような当たり前のことを述べたにすぎません。

「被害者」としてだけ「2世」論じることの問題を指摘した本記事のような主張に関して、「被害を受けている人たちの存在を何とかしなければという場面で、被害を受けていない人の話を持ち出す意味がない」という発言をされている方もいましたが、はじめから「宗教被害者」が対象ならいざ知らず、「宗教2世」を対象とした調査の場合は論外です。
深刻な被害を受けている方々のいる重要なテーマだからこそ、そうした属性のもとに生きる人びとを対象とした調査がさらなる加害を生むことのないよう、慎重な配慮が求められることは言うまでもありません。

この点、「宗教2世」に関する報道で、様々な団体の脱会支援活動をされている瓜生崇さんが関西テレビ「報道RUNNER」で語った言葉は、とても重要だと思います。

中にいる人たちが外に相談できない、対話ができない、それが一番まずい状況なんです。自分は本当に正しいのだろうかという気持ちを僕らが持てるかどうかなんです。 我々は正しいけど、あんなカルトに入ってる人たちは間違っている。我々はまともだけどあんなカルトに入っている人はまともじゃない。こういう立ち位置に立つといくらでも彼らを攻撃してしまうことができる

https://news.yahoo.co.jp/articles/793d6f5e66d0d0b814714ed331953828a89c76d1?page=2

本記事で論じてきたことも、大きくは瓜生崇さんのこのご指摘と軌を一にするものです。
「宗教2世」とは宗教被害者であるという前提のもとに、マインド・コントロールや「宗教の残響」といった枠組みをこの問題に安易に当てはめて論じるという姿勢は、「宗教2世問題」という言葉で社会が対象とするのは、マインド・コントロールから脱した(あるいはこれから脱する)宗教被害者たちであり、自らを被害者とみなしていない人々は(強固なマインド・コントロールに囚われているため)われわれは取り扱わない、というメッセージとして伝わります。
そうした調査や報道は、一部の「宗教2世」の疎外感を強め、社会的な取り組みへの接続を困難にするものとして働くでしょう。

当事者の被害の解消のためになされた報道や活動が、社会と「宗教2世」の間の壁を高くすることのないよう配慮しつつ、宗教(2世)にたいして私たち社会はどのような価値基準のもとに向き合うのかという点をつねに視野のうちに入れながら、「宗教2世」をめぐる議論が進展することを望みます。

等々、語りたいことはまだまだあるのですが、本記事はひとまずここで締めにします(*注4)。
本記事ではかなり強い論調で批判した項目もありますが、政治やジェンダーの問題を取り扱ったSession2は大変重要で勉強になりました、私自身、自らの立場で改善に向けた努力をしていければと考えています。
繰り返しにはなりますが、荻上さんらのご活動がとても重要である点につき、読書会参加者からも異論はありませんでした。本記事で指摘させていただいた諸点をぜひご検討いただいたうえで、「宗教2世」問題の改善にむけた調査や報道を継続されることを望みます。


【注】

*1 この点、顕著に当てはまる言説として、『熊本日日新聞』に掲載された横道誠さんのインタビューコメントがあげられます。「「存在否定されている気がする」 旧統一教会2世信者インタビュー 信仰は本人の意思…強調、強制性を否定」と題された記事のなかで、横山さんの次のようなコメントが掲載されています。

熊日のインタビューに答えた世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の2世信者3人は、自身の信仰について「強制されたものではない」と話した。京都府立大の横道誠准教授(当事者研究)は、こうした2世の認識について「2世に信仰を選ぶ自由意思があるのかどうかは疑問」とし、「信仰心はマインドコントロールされたものだと考えられる」と指摘する。

『熊本日日新聞』2022年10月30日号

マインド・コントロール論が妥当であるかどうかは別として、当事者の語りをそのまま受け取らないことを正当化する論拠としてマインド・コントロール論が使用されていることがみてとれるかと思います。

*2 この箇所だけに限りませんが、本書には一般社会が「標準的なもの」であることを当然の前提にしたうえで、「宗教2世」や「宗教」をそこに適用させようとする記述が多いです(⇒宗教2世に対するノーマライゼーション宗教に対する同化主義)。たとえばSession1ー5には「宗教は社会を超越するかのような世界観や体験提供手段を持つが、いかなる宗教も、社会の枠内での共生を模索する必要がある」(110頁)という表現がありますが、これはあくまでも社会との共生を求める宗教に対してだけ要請できるもののはずで、またその場合も、共生を模索する負担を宗教側にだけ片務的に求めることは不当ではないか、という視点はどこかに持たれてもいいかと思います。(⇒むずかしい話になるので本記事では控えますが、ハーバーマスの「協同的翻訳論」等を参照されてもいいかもしれません。)

*3 あまり重要な話ではありませんが、個人的には「宗教(2世)」をことさらに主題化した作品よりは、それぞれの登場人物の人生を描いたときにたまたま「宗教(2世)」が描かれてしまった、ような作品が好きで、もう少し増えてほしいなと思います。それくらい普通に身近にある、にもかかわらずなぜか見えないものとされがちなテーマであると思うからです。
志村貴子『淡島百景3』の「大久保あさみ」回に出てくる「ただの害のない新興宗教」、雑誌『With』のWEB連載マンガ「rikkaの恋愛メモランダム」にでてくる、書店で平積みされるような本を出している「どこぞの宗教」の家にうまれた彼氏、ジャック・ニコルソン主演の映画「さらば冬のかもめ」の中盤で唐突にでてきたくせに物語の結末にはなんの影響もおよぼさない「Nichiren Shoshu」座談会など。

*4 本記事では論じることはできませんでしたが、読書会、および私に個人的に感想を送ってくれた「2世」からは、以下のような批判や疑問点が出ていました。
・「当事者の声」の選別基準が明示されていない。書籍には収録できる量に限界があるのでそれはかまわないが、実態を明らかにするという名目の公開調査であるにもかかわらず、なぜ収録しなかったのか、どういった基準に基づいて収録しなかったのかを明示しないのは疑問。
・回答に含まれるイスラームの人が少なかったことも要因かもしれないが、食事に関する「制限」や葬送に関する「制限」など、宗教問題というよりは多文化共生などの枠組みでも取り扱われるテーマが回避されてしまっている印象。
・今回の事件以降、統一教会の2世の内定が取り消されたという話をいくつか聞いている。そうした声も取り扱ってほしい。
・(「宗教に違和感や疑問を感じた瞬間」項目に収録されている)「金融機関に勤め始め、年1回家族一人ひとりの名前で、最低でも1万円ずつ(多い人で10万~50万円、100万円)を教団に振り込む人が、身近にものすごい人数いることがわかって、ゾッとした。」(116頁)という回答は、当事者の声というよりはただの業務上得た知識の漏洩では。
・ラジオのパートで、黒沼クロオさんの発言を鈴木エイトさんが否定する箇所が2か所ある。司会の荻上さんがそのあたりのやり取りのフォローをしないところがすこし気になった。
・解散命令をだしても信教の自由を侵害しないという説明は疑問。集会所の建物に固定資産税が課されると維持が困難になるのは目に見えている。せめて侵害するけど規制は必要だという議論にしてほしい。
・他の思想や運動と何が異なるのかについての説明が不十分だと思う。反原発デモに子連れで参加することはビリーフ・システムの強制になるのか。


【参考文献】

伊藤雅之「オウム真理教とそれ以後――現代宗教研究の諸問題」池上良正・小田淑子・島薗進・末木文美士・関一敏・鶴賀賀雄編『岩波講座 宗教 第2巻 宗教への視座』岩波書店、2004年。
齋藤直子『結婚差別の社会学』勁草書房、2017年。
櫻井義秀「オウム真理教現象の記述をめぐる一考察 マインド・コントロール言説の批判的検討」『現代宗教研究』9巻、1996年。
櫻井義秀・中西尋子『統一教会 日本宣教の戦略と韓日祝福』北海道大学出版会、2010年。
志村貴子『淡島百景3』太田出版、2019年。
デラルド・ウィン・スー(マイクロアグレッション研究会訳)『日常生活に埋め込まれたマイクロアグレッション 人種、ジェンダー、性的指向:マイノリティに向けられる無意識の差別』明石書店、2020年。
西田公昭『マインド・コントロールとは何か』紀伊國屋書店、1995年。
渡邊太「洗脳、マインド・コントロールの神話」宗教社会学の会『新世紀の宗教 「聖なるもの」の現代的諸相』創元社、2002年。
「『宗教2世』当事者1,131人への実態調査」「社会調査支援機構チキラボ」https://www.sra-chiki-lab.com/app/download/11967348221/「宗教2世」当事者の実態調査.pdf?t=1670481056(2022年12月29日閲覧)
「『ポリコレ』を重視する風潮は『感情的な被害者意識』が生んだものなのか?」「現代ビジネス」https://gendai.media/articles/-/77812(2022年12月29日閲覧)
「伝道に連れ回され、教義のために学校で孤立 自己決定権を蔑ろにされる宗教2世の実情」「ニューズウィーク日本版」https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2022/12/24r.php(2022年12月29日閲覧)
「教会の外に飛び出しても感じる『孤独』 旧統一教会脱会後も続く呪縛 現役の宗教2世が語る現実  支援者は『社会と信者を断絶させない』と指摘」関西テレビ「報道RUNNER」https://www.ktv.jp/news/tsuiseki/20221226-syukyo2sei/(2023年1月7日閲覧)
「一点の曇りもなく幸せな恋…のはずが《超話題の実体験恋愛マンガ/rikkaの恋愛メモランダム【第3話 part1】》」https://withonline.jp/with-class/lifestyle/rikka-memorandom/KOjrz(2022年12月29日閲覧)


(2023年1月22日追記)
2023年1月21日に一般社団法人社会調査支援機構チキラボより、「『「宗教2世」当事者1,131人への実態調査』報告書、および書籍『宗教2世』に対する反応へのお礼と、書評に対するレスポンス」と題した本記事への応答をいただきましたので、以下のそのURLを記載します。
合わせてお読みいただけますと幸いです。
当該レスポンスはこちら⇒
https://www.sra-chiki-lab.com/20230121/

(2023年5月6日追記)
本記事にいただいた社会調査支援機構チキラボからの上記レスポンス、および横道誠さんの『みんなの宗教2世問題』『信仰から解放されない子どもたち』等を踏まえつつ、「宗教2世」をめぐる議論をよりよいものに更新するうえで必要だと思われる論点を提示した記事を作成しました。
本記事で論じきれなかった論点(とくに「注2」)を、近年の社会学等の議論を借りながら解説しています。お読みいただけますと幸いです。
記事はこちら⇒
https://note.com/girugamera/n/n115361eb1617?from=notice

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