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子ども食堂とは

■子ども食堂されど子ども食堂■

子ども食堂の運営をしていると色々なことに対して日々気づきがある。運営者の向上心を刺激するような出来事が常にある。それは子どもへの接し方、対応力、知識の乏しさ故の気づきでもある。

子ども食堂の担い手は地域のおばちゃんたち、専門性がないから出来事る事もある。だからこそ、それ故に配慮のない発言で子どもを傷つけないか、運営者はボランティアの方への注意喚起が必要である。貧困食堂の一人称がひとり歩きする為に、子ども食堂という名称を使用するのをやめようとも考えた事もある。

でもそんな問題を先送りにした対症療法では、何も生まれないと思う。筆者が運営する子ども食堂では、貧困家庭の子が通う場所ではない。なぜなら一個人の経済状況を民間の活動だけでは、感覚としてだけでしか把握は出来ないのである。その一因として、npoや民生委員や支援員などの専門職が関わらない市民活動と位置づけのカテゴリーであるから情報は得られない実情もあるだろう。

でもそこに筆者は、フォーカスをしているのではない。

関係性の貧困に焦点をあてている。

子ども食堂のカテゴリーには、湯浅誠に依拠すると、共生型や確かに専門性や貧困対策、地域づくりの文脈などがある。

しかしながら、結局のところ結論は多様であるということである。

子ども食堂への参加者、来る人も子ども食堂の運営方法も多様である。子ども食堂は、子どもが親以外の大人と接することで色々な選択肢、価値観の多様性を育む居場所でもある。居場所とは本来そこにあるべき場所で居心地の良い空間であるのではないだろうか。

いろんな形態の子ども食堂がある。

子ども食堂のコアなメンバーで、いつも話し合いを繰り返している。問題点を洗い出しブレークスルーをし、反省して改善するPDCAサイクルを繰り返し回している。俯瞰し鳥瞰図を見るように、何事も寛容であるべきで、大らかさが継続する為の鍵となるのではないだろうか。

目の前にある出来事を受け入れる大切さを実感している。

表面にとらわれない深い考察、多面的に物事を捉える視野を持つこと。こうあるべきだという思い込みを排除し、その子の背景やその行動の示す深い意味を考える。なぜなら、子どもがそんな行動をするのだろうか考えることが重要だと思うからだ。課題を抱えた子は、福祉の専門家に対して利害や専門性があると子どもが身構えるとあるフォーラムで聞いた。そして、規模が大きいnpoや福祉施設の運営する団体の運営する子ども食堂は、収益性や資金集めに巧みであり、組織化され過ぎて違和感を覚えると同じフォーラムに出席した友人が語っていた。でも企業の広報目的だろうが、組織化されようが子どもが主役であるから、運営側がどんなスタンスでも構わないのではないか。自主的に参加する子どもたちが居心地の良い心からくつろげる休憩所のようなコミュニケーションを豊かにする食を介在することによって、共食を楽しめる場、居場所であればそれで良いと筆者は考える。子ども食堂の担い手は、子どもたちのおかれている現状に関心があり、子どもが好きで、毎日行なっている料理づくりの延長で私にもできる入りやすい踏む込みやすいボランティア活動である。室田信一も論じていたがこの活動は、市民活動で草の根的な要素が強い。貧困対策に特化するのなら、政府が行う事べきであり、福祉政策が担うべき施策であるだろう。そして専門教育を受けない人が行うこと自体に問題が生じるだろう。でもそこが論点ではないのである。子ども食堂の担い手は専門家でない、だからこそできる事が大きいのである。それは子ども食堂という場所の気軽さ、敷居の低さ、垣根のなさからの何となく深刻な問題であっても子どもがお話できる空間で子どもの課題を気づける、地域の親でも教師でもない場所である。子どもたちが将来、大人になってからそんな場所があった事を思い出して欲しい、偏狭さを持たない人間、人に関心を持つ広い視野を持ってもらいたいと切望する。子ども食堂の担い手は、全く利害がない知らない大人の他人であり、気安くお話を聞いてもらえる存在であるべきだと思う。必ずしも課題のある子が集う場所ではない。

子どもたちがのびのび、わがままを言う事もある。子どもは、はしゃぐのが仕事だと思う。子どもが騒ぐのはこの場所に解放的になってリラックスしている証拠でもある。だが子どもとの関わり方は、常に模索している。子どもは、遊びの中で規範や社会性を身につけて、学校や社会、地域と接点を持つことで社会の一員となる。

子ども食堂に参加する子どもたちや学生、担い手には、いい思い出を子ども食堂でつくって欲しいそれを切望している。学生が参加すると年が近い所為か子どもたちが、大人のボランティアに接する際とは違う顔を見せる。たまにちょっと困った担い手も登場するが、その都度そういう担い手にも気づいてもらうように少しインセンティブを持ってもらうように行動を否定せずに話しかけをしている。ボランティア活動だから、参加する担い手も多様な人が集う。それも包括して受け入れる。

子ども食堂されど子ども食堂、貧困家庭の子が通うのは、子ども食堂だと定義は違っている。いろんな形態があって良いと思う。共生型で開放型にする事で、多くの人を集めることで、可視化されない課題や困難を抱える子どもを発見することも可能となるのでないだろうか。

子どもがのびのび育つ為にも、個人主義が確立した現代で、近所づきあいが希薄になった地域社会での隣人、アニメのサザエさんのいささか家のような存在、血縁関係のない地縁関係のような信頼される大人がいる、子ども食堂という子どもが1人でたまに立ち寄れる場所が、遊びに行ける近所のおばさんの家があってもいいのだろうと思う。

(参考文献)⑴室田信一(2017)「子ども食堂の現状とこれからの可能性」月間福祉11月号⑵湯浅誠(2017)「なんとかする子どもの貧困 」角川書店




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