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『東大債』に蘇る一言、「投資とは応援する気持ち」〜2021決して『負けない』資産運用を学ぶ〜

国立大初『東大債』、「ゴールは日本のお金を回すことだ」という東大総長の一言に、お金儲けではない、強い意志を感じる。


10代の頃、ある人に聞かれたことがある。

「資産運用として投資先を選ぶとき、『負け』のない投資先はどこだと思う?」

沈黙する私にその人は笑いながらこう言った。

「心底、『応援したい!』と思う会社に投資することさ!」

マネー・ゲームではない、本物の投資の仕方を、私はそのとき教わっていたのかも知れない。


投資の本質は『応援』

資産運用や投資と聞けば=お金儲けと考えてしまうのは世の常ではないでしょうか?

しかし投資の本質が「お金儲け」という発想は、あまりにも低レベルな考え方なのではないかと思いませんか?

投資の起源は『がんばっている人を応援したい!』という純粋な気持ちであったのではないかと、私は想像するんです。

つまり『応援』です。

応援した結果としてお金などのお礼(おれい)が後からやってきた、付随してきただけなのでは?

お礼の仕方も様々で、貨幣のない時代なら食べ物や家畜、労働力といったこともあったと思いますし、現代では『誰もが喜ぶであろう』お礼として、「お金」が重宝されている。

そしてそれが行き過ぎて、お礼目当てで投資してしまうから得に喜び、損に泣く『マネー・ゲーム』と化してしまうのだと思うんです。

投資の本質が『応援』であるならば、何かの形で応援した、その時点で応援した側の『この人を応援したい!』という気持ちは報われている=価値を得ている、勝っていることにはなりませんか?


『助けてほしい!』を応援

私は小金持ちでもなんでもない低所得層の宗教家ですが、頭を抱えてひねり出せば、お金以外で運用できそうな【資産】がいくつかあります。

例えば、地財。

都市部に100坪、庭と駐車場のある宗教施設の管理権限を今年、後継という形で委譲される予定です。

例えば人財。

夫婦、子供、教会住み込み合わせて計8人+(私の目から見れば)熱心な信者さんが外部に10名ほど、人材として活用できる余地があります。

後は細々としたものと、僅かながらの蓄財も運用、活用できると言えます。

これらの【資産】を私が応援したいと思うもの、例えば「里親募集中の孤児」や「家庭内暴力(DV)から避難してきた方」に投資をします。

私は『家族離散で苦しむ人を助けたい!』という念願がありますから、捻り出した上記【資産】を投資、活用して『応援』をします。

実例をあげると、『DV被害から逃げてきたAさん』には、地財を活用して臨時宿泊場所(シェルター)として生活場所を提供しました。

着の身着のままで逃げて来られたので、食費、光熱費等には私たちの蓄財も投入し、家庭的な雰囲気の提供、トラウマなどの心的疲労(ストレス)を和らげるために人財も時間もフル活用いたしました。

さて、以上のような投資=『応援』をした時点で、私の念願である『家族離散で苦しむ人を助けたい!』という気持ちは報われていました


応援する者に『負けはない』

投資の本質を『応援』と捉える者に『負けはない』と思います。

なぜなら投資した時点で、投資者本人の気持ちが報われているからです。

大切なのは投資の本質を見失わないことなのだと感じます。

投資目的に目を奪われると、望むような結果が得れなかった時点で『損をした』と嘆き悲しむ勝ち負けの世界、それこそマネー・ゲームになってしまいます。

先のDV被害Aさんは、私の教会を仮住まいとした数日後、「ありがとうございました、私にとっては夢のような数日間でした」という一言以外は、かかった食費も光熱費なにも一切返さずに教会を去りました。

お礼を求める投資、結果を求める投資、ペイバックを求める『目的』投資であれば、私たちの数日間は明らかに損であり、『負け』であったろうと思います。

しかし、私を含め、Aさんに関わった者みな口を揃えて、Aさんの行く末を案じ、『善き未来を』と祈る、それは満足した姿でありました。

『Aさんを応援したい』

それまで数日間の私たちの行動=投資で、Aさんを応援する気持ちが、すでに報われていたからだと思います


美談っぽくなってしまい恐縮ですが、投資の本質を見誤らないことが、資産を運用する上で、本当の意味で【勝ち・負け】を決定づけていると、改めて思いました。

あなたの行う投資は『応援』でしょうか?それとも『目的』ですか?

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