GlinTFrauleinとはるかぜの明確な違いについての推察

ふと思ったけれど、なんかツイートで言及する話じゃない気がしたのでnoteに書き残すことにします。

TL; DR

「自分のため」が他人のためになるGlinTと、「他人のため」が自分のためになるはるかぜ。


GlinTFrauleinとはるかぜ

まず、GlinTFrauleinとはるかぜについて軽く整理しておくべきです。
この2人は、分身しているとかじゃないと説明がつかないくらい常に忙しくしています。予定がないのが珍しい。それでいて、「いや予定まだ入れれますよ?」みたいに余裕そうな顔をしていることがほとんどです。
「グリントがもうちょい年齢を重ねるとはるかぜになる」みたいに言われたこともあります。そういう見方ができるくらいの類似性です。

「VRC学園に造詣が深い」「VRCスクール2期生」「アイドルをやっている」「踊れる」など他にもたくさんの類似ポイントがありますが、今回に関してはあんまり大事じゃないので飛ばします。

今回重要なのは、「非常に行動的であること」です。で、この行動性の違いについて推察するのが今回の主題です。


「アーティスト」と「デザイナー」

VRCスクールコミュニティ "N.O.A.H." (以降、NOAH) のExtraクラスが、執筆時点で現在進行形で行われている。NOAHではコミュニケーションについての授業が行われるのだが、それはExtraクラスでも提供されている。
さて、その授業内での一節(要約)がこちら。

サーバー(発信者)には大きく2種類存在し、それは「アーティスト」と「デザイナー」である。
ここでのアーティストの目的は「自分を表現すること」であり、デザイナーの目的は「他者に提供をすること」である。

雪月ヒタカ(要約)

この授業に対するはるかぜさんの感想がこちら。前半に注目。

私の感想を似たフォーマットで書くとしたらこう。

私はアーティスト寄りなので表現系の事をやっていると、その根っこは自分の為って事が多いなーって思ってます。

GlinTFrauleinとはるかぜを「サーバー」として捉えた際に、自分自身に抱く感想がまるで真逆である、というのが気づきです。
(これについて若干思い悩む部分もあるのですが、それはまた別の機会に。)

隙自語みたいになってしまうのですが、一般の意味で自分がアーティストを名乗るのはあまりにもおこがましい気がしています。ただ、今回はここでの「アーティスト」「デザイナー」を定義しており、そういう意味では明らかに「アーティスト」寄りであるという自己分析です。
これについては「サーバー」側であることを前提とした自己分析なので、相互作用が高速で行われるコミュニケーションについてはもう少し違ってくる、というのも置いておきます。

このような差異があるとき、はるかぜさんの中にはどのような深層意識があるのか、とても気になります。そのうち対談の機会とか作りたいかもしれない。
私の深層意識は、「際限のない"理解"を求める」だと考えています。何かを通して自分を理解する、他人を理解する、他人を通してもう一度自分を理解する。本当にそうかは分からないので、色々考えていくとまた違うものが出てくるかもしれないですけれど。


内向と外向

人は大きく、内向的な性格と外向的な性格に分けられます。
はるかぜさんのことはよくわからないので言及しないですが、私に関しては元々内向ベース(といってもだいぶ中間的だけど)だと考えています。特に、静かで孤独であるほど、内向性が増していく感覚があります。
VRC内で私が突然何も喋らなくなったら、何かを考えながら「何かを考えている自分」を観測しているので、適当に声をかけて現世に引き戻してくれればと思います。

私は、実は自分がよく分かりません。だから、というか、だからこそ、自分の中に浮かぶ思考や感情などにとても興味があります。

例えば、こういうツイートを見ました。ひつじ組は私が担任のExtraクラスなので、私(と副担任)で授業内容とかを考えています。
なので、この宿題提出というのは自分が起こしたアクションに対するひとつのレシーブに他ならないのですが、それを受けてのツイートが、これ。

これ(読者ドン引きの長さ)。
ひつじ組に対しては微妙にネタバレチックになってしまうのですが、授業で起こしたアクションの数々には、コミュニケーションを活性化させるという意図を含んだギミックを仕込もうとしています。
実際にそれが上手く行くかはおいといて、ここで何が起きたかを軽く解説します。

まず、私が何らかの意図を持ったコンテンツを用意します。
次に、それを経た人(湊さん)の感想を読みます。
すると、ある一節が目に留まって離れないことがあります。(今回は、「思ってた以上に自分は写真が好きなんだな」の部分)
すると、無限に歯車が回り出します。(連ツイの部分)

#GlinTさんの備忘録 は、その多くが自己対話と自己分析の記録です。かなり読み解きにくいものもあるけれど。

ここまで長々と内向性な自分についての自己紹介を行ってきましたが、結局どこに着地させたいかというと、「アクションを行った時(もしくは、サーバーとして発信を行った時)、最終的にどこに興味が向くのか」と性格の内向/外向は恐らく強く関係があるのだろうということ。それと、はるかぜさんのそれはどこに向いているのかが気になる、ということです。


何が為と誰が為

突然ですが、他人のためを思って行動できる人ってめちゃくちゃすごいと思います。私が全くそうではないという訳ではないのですが、それがすらっと、簡単に出てくる人、根から他人のための行動ができる人って尊敬できるという気持ちです。

それとは別に、人間というのは最終的には自分に何か益のあるように動きます。それはお金かもしれませんし、物かもしれませんし、形なき感謝の言葉かもしれませんし、ただの満足感かもしれませんし、動いていること自体が益かもしれません。

この2つは矛盾なく両立して、他人のために行動することで得られる益を糧に生きている人間がいるはずなのです(その益が何かは分かりませんが)。
私は、はるかぜさんがそれにあたる人間なのでは?と推察しています。というか、そうでもないと私立VRC学園の生徒会長を続けられない気がします。

私が自分に対して反省しなければならないのは、私自身が置かれている環境に甘んじているのではないか、という部分です。今でこそ、究極を言えば自己満足であることを行って、それを公開することで他人にも何かしらの益を与えています。裏を返せば、たまたま私の発信によって益を得られる人間が周りにいるだけで、やっていることは非常に利己的です。

もちろん自分のために行うことがそのまま相手にとっての益になる、すなわちWin-Winとなることがないわけではありません。それが発生することは極めて稀である、というのは事実ですが。

ただ、発信、特に創造性を伴うものに関しては、私はこれを曲げるつもりはあんまりありません。特に、金や物のために何かを創り発信するという行為は、私の教義下では非常に"つまらない"行為にあたります。まぁ、これを究極まで突き詰めると死ぬ(餓死や衰弱死)ので、どこかで現実と折り合いをつける必要はありますけれど。

さて、GlinTFrauleinにしろはるかぜにしろ、その益の中心にあるのは「人」であり、それによってまた別の「人」が益を手に入れるという構造を持っています。その始点が自分か他人かの違いはありますが、正反対の似通ったスタイルを持っていることは非常に興味深いものです。


まとめ

GlinTFrauleinは「自分のため」に行った発信が他人のためになり、
はるかぜは「他人のため」に行った発信が自分のためになっています。
多分。

ここに差異はあれど優劣はなく、しかし興味を引く対称性です。
私はここで満足して筆を置き、あとはあてもなくTwitterに放流する(はるかぜさんにメンションくらいはするかも)だけですが、これを読んだ誰かが多少なりとも益を感じてくれれば、それはそれは幸せな世界になるかと思います。


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