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国外に出る前に :「"Thank you" と "Please"より大事なこと」をもう一度

2年前にアメブロに投稿したある記事が、先日SNSのあるところで未だにシェアされているのを発見してびっくり。
確かにこの数日その記事のviewがいきなり伸びているのだ。何があったのだろう?

以前投稿した時も結構反応いただいた記憶があり、筆者も「ずーっと言うのをためらっていたけど、もう言わせてもらうよ」と意を決して文章にしたことを思い出した。

多分ここで書いたことは人間のessenntialな部分に関わっていて、時代が変わっても、国が変わっても非常に大事なことなのだろうと思う。また、この基準は言語を超えて、人の価値観のあり方を決める重要な要素。
そして、その人の日常がそこに透けて見えるということを改めて考えてみた。

ということで、2年経った今、新たに加筆修正してnoteに投稿。

2年前の4月末、シカゴ出張からNYに戻る機内で映画を見ながら、あることをぼんやり考えていた。

常々、「英語なんて上手くなくていいから、何かをしてもらったら“Thank you”、お願いするときには“Please” は言いましょう」と言っている。また、2016年に監修した雑誌『Precious』の別冊「Business Rule Book」でもコミュニケーション編でそのことを書いた。しかし「それ以前にもっと大事なことがある」と思うシーンに遭遇してしまった。

あまりに当たり前のことすぎて、それを言及する文章を私が書くことは、それを目にする人が分かってない前提になるし、馬鹿にしているかのようで失礼なのではと思い、どこにも書いたことがなかったのだが。これは敢えて言う必要があるようだ。

それは・・・
英語だ、何語だ、どんな風に言う、などなど、難しいことは抜きにして、何かを人にしてもらった時は、自分の国の言葉で「ありがとう」と言いなさい。そんなことも言えない人は、一回出直しましょう。
だ。

そんな場面に遭遇したのはシカゴ出張を終え、NYに戻る便に乗る空港でのこと。 

手荷物チェックの列に並ぶと、目の前が日本人のカップル。多分新婚さんだろうか、年の頃は20代後半から30代前半くらい。あまり海外旅行には慣れていない様子。勿論、人には初めてがあるのだから、それは大したことではない。ただ、外からの水は持ち込めないのは、もう随分前から施行されていること。捨てられるように、 手荷物をX線に通す列の近くにはゴミ箱があるのに、「あれかな?いいのかな?」みたいにお茶のペットボトルを持ってモゾモゾしている。まぁ、それも仕方がない、アメリカのゴミ箱は巨大で、見た目が日本のそれと違うし。

その後、荷物をX線に通すため、PCを荷物から出したり、ジャケットをぬいだり、あーだのこーだのと2人でモタモタ。まぁ、これも仕方がない、慣れていないのだろう。だけど、彼らの前の荷物が既にX線の箱の中に流れて行っているのに、自分たちの荷物を押して動かさないから、すぐ後ろの私も私の後ろにいた人も、変な体勢で狭いところで荷物をゴソゴソすることになってしまった。これも仕方がないとしよう、慣れないということは、全てに手際が悪いものなのだ。そうだ、そういうことが筆者にもあった。

X線を通り、向こう側に出て来る筆者の荷物を取ろうと待っていたら、前のカップルのバッグから、ミネラルウォターのペットボトルが2本でてきた模様(ペットボトルのお茶以外に、そんなに飲む水分必要なの?・・・)。係員のお兄さんが「これどうしますか?もし飲みたかったら向こうに戻って飲む?」と聞いてくれている(シカゴの係員、なんて優しいのだろうと、横で自分の荷物を持ち上げつつ感動。NYではありえない(苦笑))。しかし、それを言われている彼ら、意味が全くわからないようで、お兄さんが手に持っているペットボトルの水を見て「あー、水が入ってた〜」のようなことを言っている。係員も勝手に捨てるわけにはいかないため、彼らの意思表示を伺おうと、何度も「どうする?欲しい?いらない?」と色々聞いてくれている。

このままでは埒があかない、このように混み合っている場所ならなおさら。これも同じ言語を理解できる、近くにいた人間の役目ということで「お水どうなさいますか?必要ですか?」と横から日本語で聞くと「え、あ、いえ・・・」という返事。「いらないのですね?(←カップルに確認)いらないそうです(←係員に)」と答えてあげると、「ありがとう、わかった」と係員のお兄さん。

で、当の彼らは「お水入ってたねぇ、あははは」とか何とか喋っている。その前に言うことあるでしょう?「ありがとう」って言葉知らないの?あなたたち?と、愕然。

ここで一つ断っておきたいのは、筆者はお礼を言われたくてやったことではない、何故ならこんなの朝飯前。それに、私自身、今までの人生で、ちょっと声をかけてくれたり、さっと何かをしてくれたりした多くの見知らぬ人たちの好意にどれだけ助けられてきたか数えたら限りない。そして、それがどれだけ心強くてありがたかったか。特に日本国外にいるからこそ、深く身にしみているから、自分にできることを、無理のない範囲でやろうと思っているだけ。

自分であれこれ考えるのも旅の醍醐味であり、大事なこと。だからおせっかいはしないけど、完全にわかっていなくて危険を感じる時や、聞く相手を探している時、今回のようにその本人達はボーッとしているだけで、意思確認をしなくてはならない人が、本人と言葉が通じなくて困っている時、および他の人やお客さんにも迷惑になっている時は、公共活動の一環のようなものとして、ささっとやる。それ以上でもそれ以下でもない。

でもね、「ありがとう」って言葉がないと、「あら、迷惑だった?」と思うことがある。私が一番嫌いな「余計なお世話」だったのかな?と。だったらもう一回元の状況に戻して差し上げましょうか?とも、実は本気で思うのだ。

「ありがとう」という言葉というのは、感謝を示すという重たいことまで行かなくてもいいような気がする。もうちょっとシンプルな意思表示なのではないかな。それにさっと反応できないことも、日本人はYes, Noがない(意思がないというか、意思が見えない)と言われる所以だろう。

(日本だと、「すいません」で済ませているのも原因の一つなのではないかとも考える。何かをやってもらって「ありがとう」を言う場面は、もしかしてかなり少ない?もしそうだとしたら、日本の社会は大丈夫なのか?など色々な考えが頭を巡った。)

因みに、私の友人・知人達、英語が得意ではないけれど、なにかをやってもらったら、どこの国に行っても「ありがとう」をきちんと言っている。ちなみに日本語で(笑)。でも、必ず相手には伝わる。今や日本語話者ではなくても、「ありがとう」という言葉くらい多くの人が知っている。そしてどの国の「ありがとう」の言葉も、実際はその言葉を知らなかった相手にも、しっかり通じているものだ。(そして極論を言えば、言語なしでも、「会釈」「表情」という非言語(ボディランゲージ)で、必ず伝わるのだ。)

何よりここで伝えたいのは、母国語でさえ、自分の意思や気持ちを相手に伝わるように喋れない人は、外国語なんて到底喋れるようにならないということ。すべては自分の第一言語が元になるのだから。言語はツールであって、それを使う人次第。従って、母国語でさえきちんとしたコミュニケーションを取れない人が、万が一、習得した外国語の文法や発音が素晴らしく上手くなったとしても、ただ立派なだけの使えない無用の長物になってしまう恐れがあるのだ。

以前オリジナルの投稿をした際、「慣れてない海外で、急なことで焦って、お礼言う余裕ないこともある」という意味の力のこもったコメントも目にした。百歩譲って、彼らはそのようなシーンに慣れていなくて、兎に角いっぱいいっぱいだったとしよう。そのような人がニカニカした表情をしているだろうか(ニヤニヤではなく、ニカニカ)?そのような人が相方とペラペラおしゃべりする余裕あるだろうか?確かに人の緊張度を確実な数値で目測できないので、もしかしたらそういう方もいるかもしれないという前提にしよう。だとしたら尚更だ。日常から「ありがとう」という言葉やその意思を相手に伝えることが、彼らの当たり前の中に無いということが証明される。急な時・危機的状況の時ほど、その人の取り繕うことの無い日常が出るものだから。

日本の皆さん、グローバル感覚というのは、英語ができるとか国際的なビジネス感覚とかいうことだけではない。それよりももっともっと大事なことは、自分の国の言葉で「ありがとう」と言えること。

それさえできない人に”世界”という舞台は一生訪れないということ、どうぞお忘れなく。

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