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離れた土地での災害と自分にできること

夢は毎晩かならず見るのに、初夢のけさにかぎって憶えていない。

ゆうべは、いつになく遅くまでニュースを見たりSNSをチェックしたりしていた。

寝付けないからそうしていたのか、そうしていたら寝付けなくなったのか、どちらかはよくわからないが軽い興奮状態に陥っていたのだろう。

大きな地震が発生するほんの数分前、新年さいしょの短い記事を投稿した。のんきにもほどがある、いまとなってはそう思わずにはいられないようなものだ。

天災というのは、読んでいる途中の本のページを突然やってきた何者かにいきなりめくられたような、そんな突拍子のなさでなにもかも一変させてしまう。夢よりも、あるいは夢のようなものかもしれない。

けさも、やはり起き抜けにニュースをつけてしまった。正月ということをさしおいても、ふだんはあまりないことである。

夜が明けたことで、昨夜はまだ判然としなかった被害の状況もまた明らかになってゆく。

いまはテレビも消し、カザルスが弾くバッハの無伴奏チェロ組曲を聴いている。

バッハの音楽には、ざわざわと粟立った心を鎮める力があるからだ。

心を調律する必要があるとき、だからぼくはいつもバッハを聴く。東日本大震災の後は、しばらく音楽はバッハしか受け付けない日々が続いた。

“3.11”のときもそうだったが、ニュース映像を見ているとなにもできない自分の無力さに苛立ったり、絶望したりするものだ。精神的に疲れ果てて、虚脱状態になってしまう人もいるかもしれない。

けれども、そうした離れた土地で起きた災害を前にどういう心持ちで過ごせばよいかということについては、やはり13年前の体験がひとつの“教訓”をもたらしてくれる。

当時、ぼくは仕事柄はからずもいくつかのボランティアに手を貸すことになった。

そして、そのとき知ったのは被災地の復旧にはとても長い時間がかかるという現実であり、その段階段階で必要とされる援助もちがうということだった。

たとえば、災害の直後には食料や衣料品、あるいは最新の正確な情報を得るための手段が最優先で求められる。

しかし、この時点では個人でできることは残念ながらあまりないと言っていい。

被災地へのルートは規制されているし、無理して個人で乗り込むことでかえって被災地の人たちの足手まといになるという恐れもある。

だから、この時点でできることは公的な援助にのっかることにかぎられる。いますぐなにかをせずにはいられないという人は、こうした援助の窓口にアクセスするのがいい。

東日本大震災のときは、石巻に住む被災者と物資の運搬が可能な公的機関にコネクションをもつ知人から相談を受け、一般の人たちに呼びかけて必要な物資を届けるための“ハブ”として活動することができた。

たまたま、そうした“ハブ”になりうる仕事についていたせいもあるが、知らず知らず使っている職能がなにかしら役に立つこともあるのだとそのとき知った。

募金や力仕事以外にも、援助のかたちはさまざまあるのだ。

震災後しばらくしてから、被災地の学校に文具を届ける活動のお手伝いもさせていただいた。

時間が経てば経ったで必要とされるものはちがう。学校に文具を届けたいと相談を受けたときは目から鱗の思いだった。

また、知り合いの何人かは津波で流されてしまったアルバムや写真を洗浄して持ち主の元に帰すというプロジェクトを長いあいだ継続しておこなっている。

そう思えば、援助は災害直後にかぎらず人びとの記憶が薄れかけた後もずっと続くものだということがわかる。

そして、なにかしたいという気持ちを持ちつづけていれば、そのどこかの段階でかならず役に立てるタイミングもまた訪れる。

なので、たとえいまはなにもできなかったとしても苛立ったり絶望したりする必要はないとぼくは思っている。

たいせつなのは、自分のターンがやってきたらここぞとばかり力を発揮すること。

それまでは英気を養うための準備期間ととらえ、被災地で困っている人たちに心を寄せつつもしっかり休息し、いつも通りの日常を楽しむことも必要だ。

なぜなら、心が弱ってしまってはだれかの手助けになることもできないではないか。

思いがけない元日となってしまったが、天災に見舞われることの多い国に暮らす者として自分にできることはなにか、そしてそれはどのタイミングでもっとも役立つのか、あらためて見直す新年にしたい。

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