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ごはんをちゃんと食べるってもしかしたらすごいことなのでは?

毎日ちゃんとごはんを食べる。もう、それだけでじゅうぶんえらい! そう思わせてくれるのが、韓国の人気バラエティ番組『三食ごはん』だ。

数年前、コロナ禍のさなかにうっかりK-POP沼にハマり、ちょうど音楽以外の文化にも興味が湧きはじめたタイミングで出会ったのがこの番組だった。

おなじみの俳優やアイドルが山深い農村や離島の漁村で自給自足の生活をくりひろげるときくと、あるいはTOKIOのメンバーが田舎暮らしに挑戦する「DASH村」を思い浮かべるひとも多いかもしれない。じっさい、慣れない農作業で汗を流し、大工仕事に奮闘するその姿には共通する部分も少なくない。

だが、この『三食ごはん』で出演者たちに課せられるミッションはより具体的かつシンプルだ。

一日3回ごはんをつくって食べること

ただそれだけ。ただそれだけなのに、なんでこうも面白いのか。

それは、「ごはんを食べる」という誰もが日々あたりまえのようにやっていることが、じつはとても大変なことなのだとあらためて教えてくれるからではないだろうか。「ごはんを食べる」という日常の営みに光をあて、肩肘張らずに考えさせてくれる。そこに、この『三食ごはん』という番組のいちばんの魅力がある。

そこで、あらためてぼくの思うこの番組のみどころについて挙げてみたい。

まず、なんといっても出演者が食事のことしか考えていない。それがいい。そこでは、地球がごはんを食べることを中心に回っている。だから、観ているぼくらもまた焦点がブレないのだ。

たとえば、米を炊くにも湯を沸かすにも、まずは火をおこす必要がある。炊事場は屋外なので、火をおこそうにも風雨の影響を避けられない。しかも、夏は暑く冬は寒い。たまのキャンプならともかく一日三回それをやるのだ。しかも、必要に迫られて。

それだけではない。いま畑でどんな野菜が手に入るか、はたして魚が釣れるかどうかでも食事の内容は激変する。海が荒れて魚が獲れず、間近に波の音がきこえるようなところでジャガイモを齧って飢えをしのぐ姿など、たちの悪い冗談のようだがそれが現実なのだ。

そのため、ごはんが完成し食卓に並べられるだけでなにかしら偉業が達成されたような気分になる。いや、じっさい「ごはんを食べる」ということは命をつなぐことそのものなのだ。『三食ごはん』を観ると、そのことにあらためて気づかされる。


ところで、韓国のドラマなど観ていると、あいさつの場面でしばしば「ごはん食べた?(パン モゴッソ?)」というフレーズが登場する。「元気にしてた?」くらいの意味合いだそうだが、韓国がまだ貧しかった時代、相手の暮らしぶりを思いやって言われたのがそもそもの起こりだという。

なるほど、それを知ると「三食ごはん(サムシセッキ)」というこの番組のタイトルに込められた意味合いもおのずからくっきり浮かび上がってくる。

とはいえ、最初に書いたように、「食育」うんぬんと小難しくならないのがこの番組の良さでもある。そしてそれは、なんといっても自給自足の生活に挑戦する出演者のキャラクターの魅力によるところが大きい。

まず、「漁村編」や「コチャン編」で活躍するチャ・スンウォンユ・ヘジンは絶好のパートナー。

なかでも、ありあわせの食材でキムチやチゲといった家庭料理を手早くこしらえてしまうスンウォンの腕前には驚かされる。料理はもちろん、整理整頓も怠らないその暮らしぶりを見るかぎり、それが付け焼刃でないことは明らかだ。「チャおばさん」なるあだ名がつくのも頷ける。モデル出身で、一見コワモテのイケオジなのだけれど。

それとは対照的に、ふだんから一切料理はしないと公言し、番組でも後輩にまかせっきりでその態度を頑なに崩そうとしないのが「チョンソン編」「海辺の牧場編」に登場するイ・ソジンだ。

火をおこすにも最初は必死にうちわを使ってあおいでいたが、ある日持参したハンディタイプの扇風機で代用できることを発見し、自給自足生活に退廃をもたらす。この少しでもラクをしようという小賢しさがユ・ヘジンと真逆で、シリーズを通して視聴する楽しさにもつながっている。
高校、大学とアメリカで暮らした経験をもつイケメンというキャラと、観るものをイラっとさせる不遜なキャラとが見事に合致してイ・ソジンを「イ・ソジン」という揺るぎない存在たらしめているのだ。

しかし、不幸なのはそんなソジンとペアを組まされる後輩たちである。
必要に迫られて、というかなかばヤケクソ気味に不慣れな料理に挑戦するオク・テギョン(2PM)。失敗を重ねながら、だが回を重ねるごとにちゃんとした料理の形になってゆくあたり地味に感動する。こうした「成長の物語」も『三食ごはん』の隠し味のひとつとなっている。

かと思えば、エリック(SHINWA)のように一切の手を抜かず淡々と見た目にも美しい料理をつくる者がいる。当然時間もかかる。ソジンからは散々嫌味を言われても我関せず。そのマイペースっぷりはある意味見事。

同じような素材を使っても、料理と向き合う態度は人それぞれ。料理にはつくづく個性が宿るものだ。

もちろん、韓国という「近くて遠い」国を知るという意味でも、この『三食ごはん』は興味ぶかい。

韓国料理では野菜をふんだんに摂るというのはよく知られるところだが、じっさい漬物にしたり汁物にしたりとさまざまな野菜が使われる。かならずしも凝ったものではないが、健康的な上、食卓が賑やかになるのでつい真似してみたくなる。じっさい見よう見まねで我が家のレパートリーとなったものもいくつかある。

野菜といっても、エゴマの葉、ツルニンジン、大根の葉を干したものなど日本ではかならずしも一般的ではないものも多く味を想像しながら観るのも楽しかったりする。

ほかにも、日本では酢が使われるところで梅エキスだったり、肉料理に梨のジュースを使ったり、所変われば品変わるとはまさにこのことと感心してしまう。海の幸では、グロテスクとしか形容のしようのない「ユムシ」が衝撃的だった。日本でも珍味として流通していたりはするようだが。

また、儒教の影響といわれる年功序列の文化や男同士のスキンシップなど、日本人の目からするとびっくりするようなことも少なくない。

ぼく個人はこうした世界で自分が生きられる自信はまったくないが、初めて顔をあわせてもすぐさま役割が決まるような簡潔さは集団生活にはなにより有効なのだろう。軍隊生活を経験していることも大きそうだ。

これは韓国にかぎった話ではないが、長い歴史をもった世界には当然のことながら独自の文化というものがある。似ている部分もあれば、まったく違うといった部分もある。コミュニケーションに際しては、まずはそのことを心に刻んでおく必要があるだろう。

ところが、日本と韓国についていえば、物理的な距離が近く、しかも外見も似ているため無条件で「わかりあえるはず」という前提に立ってしまいがちだ。そこに齟齬が生じる。そうした齟齬のもとになる文化のちがいは、この『三食ごはん』を観るだけでも知ることができる。そして、少しだけ韓国という国とそこに暮らす人びととの距離が縮まった気がする。

ぼくは韓国に友人がいるが、似ているところには思いっきり共感し、異なるところにはよく耳を傾けるようできるだけ努めている。友人もまた、そのように接してくれていると感じる。たがいにリスペクトしているからこそ友人でいられるのだ。そしてそれは、仮に日本人同士だったとしても当然のことじゃないだろうか。

ちなみに、そんな友人は『三食ごはん』では断然「スンウォン推し」だそうだ。

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