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適温と天の配剤 週末のできごと

十二月はどうしたって忙しい。

年末年始をひかえ仕事もバタバタするが、プライベートも負けず劣らずバタバタする。

休日にはなにかしら、それも誰かと会うといった予定がポンポン飛び込んでくる。

そしてこの週末が、まさにそんなふうだった。


正月休み以来はじめての三連休だったこの週末。そのため、浮かれてちょっとばかり油断していたようだ。

終わってみれば、なにやら必死に予定を消化することで終わってしまった気がする。とはいえ、それはなにも今年にかぎった話ではない。


毎年12月がそんなふうになってしまうのには、だが、理由がある。ひとことで言えば、僕がひどくつきあいの悪い人間なのがいけないのだ。

12月が近づくと、せめて年末ぐらいはとか、たまには忘年会がてらとか、そんなちょっと断りづらい枕詞とセットでお誘いがかかる。

僕もそうなるとさすがに逃げられない。まあ、年末だもんね、と観念する。

こうして、ただでさえ慌ただしい年末に一年分のひとと会うといった事態になってしまうのだ。もはや年の瀬の習慣。


土曜日のこと


土曜日は、夜コンサートに行こうとチケットを買ってあった。

日中はのんびりして、夕方前に家を出ればじゅうぶん間に合う。それともすこし早めに出て、どこかカフェで軽食でもとってから行くか。

そんなことを考えていたところ、時間をとってほしいと知人から連絡が入った。どうしても話しておきたいことがあるという。

あらかじめ用件を言ってくれればよいのだが、会って直接話したいからと教えてくれない。

なんだかんだ、会わないで済む方向に話をもっていくのではと警戒されているのだ。すっかり手の内を読まれている。

午後、都心のコーヒーショップで待ち合わせて話を聞いた。

なんでも、共通の知人であるカップルがどうも最近うまくいっていないらしい。知らずに僕が余計なことを言ってしまわないようにと先回りして知らせてくれたのだ。

まあ、向こうから話を振られないかぎり、わざわざこちらから余計なことを言うような種類の人間では僕はないのだが。

うん、まあ、そういうこともあるかもね。とにかく、ふたりともいい大人なんだから何か言ってくるまで放っておけばいいんじゃないかな? 

なんて、ずいぶん気のない口のききかたをしてしまった。でも、ほかになにか言いようなんてあるだろうか?

その一方で、きっと自分が離婚したときもこんなふうに周囲に気をつかわせてしまったのだろうな……などといまさらながら申し訳ない心境になったりもするのだった。ほろにが。


知人と別れ、赤坂のサントリーホールで東京交響楽団のコンサート。

「春」という名前でしばしば呼ばれるシューマンの交響曲第1番と、シェーンベルクがオーケストラ用に編曲したブラームスのピアノ四重奏曲第1番というめずらしい取り合わせ。

シューマンも、今回演奏されるのは作曲家で指揮者でもあったマーラーがオリジナルの楽譜に手をくわえたバージョンなので、ロマン派の楽曲に隠し味として「ウィーン世紀末」というスパイスをふりかけたようなプログラムというわけだ。

こういうちょっとひねったプログラムには嫌でも食指をそそられる。とにもかくにも中身重視。面白ければ、名の知れた演奏者だからといったことにはあまり頓着しないタイプなのだ。

今年のコンサート納めにふさわしいすばらしい演奏。

外に出ると、夜だというのに薄手のニットとコートという恰好でもうっすら汗ばむような陽気。街角のクリスマスツリーもなんだか場違いに見えて気まずそうだ。

日曜日のこと

日曜日は、やはりひさしぶりに会う異性の知人と横浜で待ち合わせる。

きのうとはうって変わって冷たい北風が吹いている。

山下公園の付近では、クリスマスシーズンということもあってライトアップのイベントが盛大におこなわれていた。暗くなるのを待って見物にいく。 

照明デザイナーの石井幹子と娘のリーサ明里のおふたりが企画デザインで参加していると聞いて楽しみにしていたのだが、なんというかコレじゃない感がすごかった。

東京駅や東京タワー、歌舞伎座といった日ごろよく目にする石井さんのシンプルな照明デザインからは想像つかないセンス。一体どうしてしまったのか……

ゆうべのコンサートでは、マーラーもシェーンベルクも「素材」をいかに引き立てるか、「素材」のもつ可能性をどれだけ引き出せるかといったことに軸足を置いて編曲を施しているという印象を受けた。

それに対して、今回のこのイベントからは「横浜」という素材のよさがまったくといって伝わらなかったのだ。

もちろん印象は人それぞれだろう。ただ、僕にはずいぶんと残念に感じられた。期待が大きすぎたのかもしれない。


その後、レストランに移動して食事をしたのだが、その席でもっと頻繁に会いたいのだといった話をされすっかり弱ってしまった。

というのも、僕は他人といっしょにいることに必要以上にストレスを感じてしまうタイプだからだ。

仕事に際しては意識的に回路をショートさせているので全然平気なのだが、だからこそというべきか、プライベートにおいては(大げさに聞こえるかもしれないが)心の平穏を保つべく他人とすごす時間とひとりですごす時間とのバランスをかなり慎重にコントロールしているようなところがある。 

こんなふうに書くと僕はなんだかとても気難しい人間のように思われそうだが、むしろ真反対だと自分では思っている。

ちょっと過剰なくらいガードしておかないと、すぐさまこちらの領分に易々と踏み込まれてしまうのだ。僕のひとづきあいの悪さは、たぶんそこに端を発している。

これは、言いかえるなら、人と人との距離における「適温」についての話である。

そして、それは同性にも異性にも等しくあてはまるものだ。なので、特定の相手に対する好きとか嫌いとかいった感情の問題に還元されてしまっても困ってしまう。

もちろん、そんな僕でもかつての恋人や妻であった人には共にすごす時間の楽しさや豊かさを教えてもらったし、たとえ結果的にうまくいかなかったとしても、その点では感謝もしているし、またいまでも信頼している。

ただ、きょう会ったのは自分にとってそうした存在ではなく、むしろたがいの「適温」を尊重しながら長くつきあってゆける人という認識だった。そんなこともあり、正直ちょっと当惑してしまったのだった。

あるいはとても我儘と思われたかもしれないし、もしかしたら底意地の悪いやつだと思われたかもしれない。

だが、もしその感覚が共有できないとなるとそのひとを「友人」と呼ぶことすら僕はためらってしまうだろう。

それにしても、そんな感情をなんとか判ってもらおうと言葉で説明しなければならないのはしんどい。また、言っている自分に対しても「何様?」とツッコミを入れずにはいられなかった。自己嫌悪に陥りながら帰宅。

月曜日のこと

月曜日は、朝になっても前夜の疲れがなかなかとれなかった。

しかし気分転換をはかりたい気持ちもあり有楽町まで映画を観にいく。前評判がよかったアキ・カウリスマキの新作『枯れ葉』。

思えば、カウリスマキの映画を渋谷のユーロスペース以外の劇場で観るのははじめてかもしれない。客層も渋谷とはぜんぜん違っていてなんだか不思議な気分だ。

この新作でも、アキ・カウリスマキはいつもと同じく無表情で、一見したところ不機嫌そうにみえるが、そのじつ誰よりも優しいまなざしで登場人物たちを見守っている。

生きているかぎり、ひとは希望を捨てなくていい

そんなメッセージを耳元で囁かれているような90分。

そしていつもながら台詞や映像に頼りすぎない「引き算」の美学に惹かれる。いや、「引き算」というか「適温」だろうか。 

他人に惹かれるとは、あるいはそのひとの「適温」をふしぎと自分も心地よいと感じるところから始まるのかもしれない。

いま、このタイミングで『枯れ葉』を観れたのが、自分には天の配剤のように感じられた。

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