フラクタル#1

「あのうすみませんが、コーヒー代を貸していただけますか?ベッドの引き出しに置いてきてしまって」

声がして見上げると、寝間着姿の高齢男性が立っていた。片手には点滴がぶら下がっている。入院患者のようだ。

「はいどうぞ」

財布から五百円玉を一枚取り出して渡すと、男性はありがとうございますと頭を下げてから、点滴台と一緒とは思えない軽やかな足取りでレジ方面に歩いて行った。

「助かりました。まだここにいらっしゃいますか?急いで財布をとってきますので」

しかし発した言葉とは裏腹に、男性は私の前の席にことりと座り、コーヒーカップをテーブルにおいて自己紹介をはじめた。

「わたくし、坂田ともうします」

坂田さん68歳、ずいぶん前に妻に先立たれて今は独身。泌尿器科で入院中。

「草野です」

なんとなく私も自己紹介をしてしまう。草野マリカ。40歳。独身。病院には検査のために来て、もうしばらく来ないと思う。などなど。

「しばらく来ないということは、検査結果は良好だったのですね。何よりです」

坂田さんはコーヒーカップを掲げ、私たちはコーヒーで乾杯した。

「ところで、立ち入ったことを伺いますが、いま恋愛をされていますか?」

立ち入ってくるなあ。私はおもわず笑ってしまった。

「していません。恋愛にはどうも縁がなくて」

「やっぱり」

「やっぱり?」

「いや、そういう意味ではありません。気分を害されたのなら申し訳ない」

「いえ、別に」

慣れているので。という言葉を私はぐっと飲み込んだ。

「私の主治医がとてもいい人なのですが、最近恋人にふられたらしくて。36歳、独身です。あなたにぜひご紹介したい。いかがでしょうか?」

いかがでしょうか、といわれても。私は返事に困ってもう一度笑った。

「医者なのでモテるとお思いでしょう?それがまったく違うんです。とことん恋愛運がない」

「とことん、ですか」

「そうです。とことん。あなたも恋愛に縁がないとおっしゃるので、なんだかピンときたんです私。お二人合うんじゃないですかねえ」

坂田さんはうれしそうに手をぱちんと叩いた。

「あ、現れましたよ。噂をすればなんとやらですね。あそこ、白衣着てレジに並んでいる人、あれが私の主治医の神田川先生です」

私は坂田さんの視線の先を見た。ひょろひょろと背の高い、しかし全体的にだらりとして生気のない男性が重そうにサンドイッチを持って床の模様をじっとみていた。足元は健康サンダル、重そうに白衣を羽織っている。

「神田川先生―。おーい」

会計を終えた先生に坂田さんは声をかけた。呼ばれた先生は小さく会釈をしながらサンドイッチを片手にぶら下げたままこちらにやってきてしまった。

「坂田さん、こんにちは。今日もお加減はよさそうですね」

「おかげさまで先生。ご紹介します。こちらはさっきお友達になった草野さんです。私にコーヒーをおごってくださいました」

あれ、いつの間にか奢ったことになっていた。調子が良いのか。物忘れが激しいのか。

「先生もお忙しいと思うので手短にいいますね。先生は独身で最近失恋したとおっしゃっていましたよね?そして先生はとことん恋愛運がない、と」

「これ以上ないほど手短ですね」

神田川先生は頭をかいて苦笑した。

「こちらの草野さんも独身で恋愛に縁がないとおっしゃるお方です。どうです、お付き合いしてみるというのは?」

坂田さんの手短すぎる話に私は笑ってしまった。

「私としたことが。いきなりお付き合いは躊躇されますよね。とりあえずお友達からはじめましょう。ね?そうしましょう」

屈託無く坂田さんが言う。坂田さんを否定も肯定もできずに、恋愛下手な私と先生はもそもそとしてしまう。

「ところで坂田さんは?シングルなんですよね。恋愛しないんですか?」

話をごまかすために私はきいた。

「してますよ。亡くなった妻と今も」

坂田さんが幸せそうな顔で言う。いいなあ。思わず私がつぶやいたのは先生とほぼ同時だった。

「ほら、ハッピーアイスクリーム。お二人、お似合いだと思いますよ」

坂田さんはうれしそうに手をたたいた。

坂田さんの強いリクエストにより私と神田川先生は連絡先を交換した。呼び出された先生は慌ただしく仕事に戻り、坂田さんはコーヒー代を私に返さなければならなかったことを不意に思い出して慌て始めた

それはそれで。それっきりだろうと思っていた。

ところが。

神田川先生からその日すぐに連絡があった。

「また来院する予定はありますか?ちょっとお話したいです。友達として」

宛先は私だけで坂田さんは入っていなかった。思わぬ展開に驚いた。最後の、友達としての追記に先生の誠実さを感じてほっこりした。

「来院の予定は特にありませんが、来週なら喜んで」

あっという間に再会が確定した。待ち合わせ場所には病院近くの(外部の)カフェが指定された。

余裕をもって家を出たのにバスが大幅に遅れた。外見が乱れすぎない程度の小走りで、どうにか約束の時間に間に合った。先生はすでに着席して待っていた。


 ジンジャーライムスクランブルとかいう何者かわからない飲み物を店員に強力に薦められ素直に従う。スクランブルという名前に不安を感じたが、案外普通のソーダ系の飲み物だった。先生は焦茶の液体を飲んでいたからてっきりアイスコーヒーなのかと思いきや、ブラックブラックミラクルとかいう黒糖系のドリンクらしい。

「ここ普通のものないんですよ。でもどれ飲んでもそこそこうまいんで」

「そこそこって、ひどいな」

ギャル風の若い店員が不満気に言ったが、いかにも常連の客にいうような笑みを帯びた口調だった。

「その後坂田さんはお変わりないですか?」

先生はうんうんと頷いてから不思議なことをいった。

「変わりようがないからねえ。でも最近あんまり現れないですよ。あっちの世界に戻っちゃったのかも」

「あっちの世界、とは」

尋ねると、先生が答える前に店員ギャルの声がした。

「わ、この人も坂田さん見えるんだー」

「そうなんだよ。びっくりでしょう。坂田さんが見える人、これで3人目」

先生はギャル店員にいった。

「一体どういう法則なんだろう?」

先生たちは普通に話していたが、私は訳がわからない。

「どういう意味ですか?」

「坂田さん、普通の人間じゃないんすよ」

先生は説明を始めた。

「坂田さんはほとんどの人に見えません。例えば、この人」

先生はギャル店員を指差して言った。

「試しに病院に来てもらったけど、この人には坂田さんは見えなかった」

そうそう。ギャル店員はカウンターの向こうでうなずいた。

「最初に坂田さんを発見したのは病院のカフェの上田っていうバイトです。坂田さんが普通にコーヒー買いに来るもんだから普通に応対してたら周りにすごい変な目で見られて気がついて。でも、あいつは大学で物理専攻だから多次元?異世界?の人だって大興奮で周りの目なんか気にしないで、坂田さんにいろいろ聞きまくったみたいだけど、何も答えてもらえなくて悔しそうです」

「異次元、異世界ですか…そんな先進的な雰囲気ありませんよね、あの方。見た目普通のおじいさんじゃないですか」

「そうそう、そうなんすよ。だから俺は死後の世界の人だと思ってます。病院だし、そのほうが可能性高そうでしょ」

「死後の世界…幽霊ってことか。私そういうの見ない方なんですが」

「俺も俺も。坂田さんが初です」

「神田川先生はどうやって坂田さんに出会ったんですか?」

「草野さんと一緒です。カフェのレジでお金貸してって言われて普通に渡したんすけど、そのとき上田が喜んで俺に抱きついてきちゃって。「やっと見つけた!」とかいって。いまだに噂になってるんすよ、おれと上田」

「この病院で亡くなった人なのかな」

「さあ」

「調べてないんですか?」

「個人情報管理、超厳しいんすよ」

なるほど。ご時世だ。

「あなたのことを主治医って言ってたけど?」

「ね、あれなんででしょうね。カフェで会うだけなのに」

先生は言った。

「あの点滴台は、どこから…」

「さあ、コスプレみたいなもんじゃないの」

コスプレ。

「俺が気になるのは、なんで上田と草野さんと俺にだけ坂田さんがみえるのかってことです。どうしても気になって今日呼び出しちゃいました」

「上田さんと先生の共通点は?」

「色々あるけどよくわからないんです。草野さんが加われば、もう少し絞り込めるかもしれないと思って。で、もしよければなんですが一緒にこの謎を解明しませんか?ていうか、上田が絶対に草野さんを巻き込みたいっていうから、まずは俺から感触を聞いてみることになっていて。あいつこれで論文書くっていってるんすよ」

「私はかまいませんよ。暇だし。面白そうだし」

「よっしゃ。とりあえず思いつく限りの仮説を洗い出してるらしいんで、上田が、それまとまったら声かけます。草野さんのほうでもなんか思いついたりしたら連絡ください」

なんとも緩い約束をしてその日は別れた。帰り道、病院カフェのレジ(上田さん)がどんな人だったか思い出そうとしたけれど、無理だった。坂田さんが私に話しかけた瞬間もレジでこっそり小躍りしていたのだろうか。声をかけてくれればよかったのに。


「リカちゃん、今日デートだったでしょー」

家に帰ると妹がうれしそうに迎えてくれた。そういう妹は多分今日も一歩も外に出ていない感じ。

妹は服飾系の大学に通っていて日々大学から大量に課題が出るのだ。それをこなすだけでもじゅうぶん忙しいのに妹は「武者修行」と称して自分で作った洋服をインターネットで売っている。全部手作りの1点ものなので非常に小さな規模だが、それなりに顧客がついていて売り出せば確実に売れるので楽しくて仕方がないらしい。

「そういうサキちゃんは今日も外出してないでしょ」

お土産に買ってきたシフォンケーキを渡すと妹の顔がぱーっと明るくなった。

「開けていい?そして食べていい?」

「いいけど、夕飯食べられなくなるとママが悲しむよ」

いつものやり取りだ。妹はシフォンケーキをじっと見つめてからぱたんと袋を閉じる。

「そうだよね…じゃあ、あとにする」

渋々私に袋を返すと、再び部屋に戻っていった。ばたんとドアが閉まると、かたかたとミシンの音が聞こえる。

妹のサキちゃんに私の有り余る自由時間を分けてあげたいと思う。妹は常に課題と武者修行のネット販売に追われている。睡眠とか食事とか社会活動とか、妹にはいろいろな時間が不足している。それでも彼女はまったく気に留めず、日がな年代物の足踏みミシンと向き合っている。


「そういえばさ、さっきごまかされたけど、リカちゃん今日デートだったんだけ?」

我が家は家族で食卓を囲む。私は少し離れたところで一人暮らしをしているのだが、夕食だけはほぼ毎日食べに来る。母の作るご飯は素晴らしくおいしい。

「あら、そうなの。めずらしい。よかったわねえ」

母はテレビを見ながら適当に相槌を打つ。

「友達と会ってただけだよ。新しくできた友達だからちょっとおしゃれしてみました」

「男の人?」

「男の人と女の人。両方」

カフェのギャル店員も仲良く話したから入れておく。

「ふうん」

妹は一気に興味を失ったようで、私に質問するのをやめてテレビを見ている母に合流した。


ご飯を食べ終わると自分の家に帰り、お風呂に入りながら先生の話を思い出してみる。坂田さんが見える理由。なぜ限られた(しかしおそらく特別ではない)人のところに坂田さんは現れるのか。坂田さんの目的は何か。

というか、坂田さんが多くの人に見えないのはなぜか?

私が暇なのは、3ヶ月前に会社を辞めたからだ。我ながらよく決心したと思う。

それまで仕事ばかりしていて、人間関係も何もかも職場で賄っていたから、会社を辞めて一番にしたかったことは新しいお友達を作ることだった。

元来人見知りで妹と遊んでばかりいるから自力で友達を作るのは無理な気がしていたが、病院に検査に行って友達ができるなんて棚から牡丹餅。私一人では成しえなかった。すべて手短すぎる坂田さんのおかげだ。なぜ見えるのか、見えないのかはわからないままだったが、とりあえず私は坂田さんに感謝を捧げた。ありがとう。坂田さん。またお会いできますように。


幸せな気持ちでお風呂から出たら、サキちゃんからの連絡でスマホの通知が埋まっていた。ご飯を食べているときは落ち着いていたのに、この数時間に一体何があったのだろう。私はすぐに電話をした。

「沖縄のおばあちゃんが死んじゃった」

妹は涙声だった。

「すぐ行く」

お風呂上がりのすっぴんで、濡れた髪のまま服だけはどうにか着て、私は再び実家に行った。鍵とスマホだけを握りしめて。

<つづく>

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