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怒りを他者に向けても何も良いことがない

植松さんのブログを見ていたら、流れてきた記事がある。

世間知らずの私はガソリンがこんなに燃えやすいとは知らなかった。
犯人も爆発が伴うほど危険と分かっていたのだろうか。。。
理系の人はやっぱりすごいと思うと同時に、文系の私は無力感が襲う。たくさんの尊い命が失われたことを悲しく思う。

このような理不尽な出来事が起こる度、やるせなく思う。こんなことがもう二度と起こらないように祈ることしかできない。

義務教育も大事だけど、自分の怒りを無関係の他者に向けない心の持ち方の教育も必要なのではないかと思う。

アンガーマネジメントも流行ってはいるけど、自分を変えたい人にしか届かなくて、問題を抱えていても自分で気づいていなかったら届かない。

犯人は他者を攻撃する時、自分のどんな心から来ているのか分析ができなかったのかな。。。嫉妬?怒り?羨望?
それは正当か?怒りを向ける対象は適切か?
強烈なパワーを他者に向けるのではなく、自己改革に向けることはできなかったのかな。

正々堂々と争えるのは、スポーツやゲームの試合だけだ。

ただ、犯人を全く他人と思えないのは、私にも怒りや嫉妬があるからだ。「向こう側」に行かないように、日々不安と戦っている。

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浄土真宗開祖の親鸞聖人が「ご縁」について語るエピソードがあるのだが、それが私の中でしこりのように残っている。『歎異抄』の中で親鸞とその弟子唯円のやりとりだ。

唯円は親鸞に「私のいうことを信じて反対しないか」と言われて、「反対しません」と答える。

すると親鸞は「人を千人殺したら、浄土に往生する」と言われて、唯円は「私には一人も殺せそうにありません」ともちろん断る。

「あなたは反対しないと言ったじゃないか」と言った後、親鸞は言う。

「これにて知るべし、何事も心にまかせたることならば、往生のために千人殺せといはんに、すなはち殺すべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁によりて、害せざるなり。我が心のよくて、殺さぬにはあらず、また害せじと思うとも、百人・千人を殺すこともあるべし」

「これでわかるはずだ。思い通りにできるのであれば、往生のために千人殺せと言ったらすぐに殺すはず。しかし、一人も殺すことができないのは、殺すべき縁がないからである。自分の心が善いから殺さないのではない。また人を傷つけるつもりがなくても、縁があれば百人・千人を殺すこともあるだろう。」(『歎異抄』第十三条)

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私は今「ある」よりも「ない」ばかり数えている。

お金がない。恋人がいない。頭が良くない。若くない。etc…

これが誰かに奪われていると思い込んだ時、強烈な怒りの炎に包まれたりしないか。

「ご縁」というのは何も好きな人との「ご縁」ばかりではない。きっかけのような「ご縁」もある。

そのような「ご縁」をもらったとき、私は何もせずにいられるのだろうか。相手の全てを奪いたいと思ってしまわないだろうか。

「ご縁」を頂かないように、今を精一杯生きるしかない。「ある」を数えられる自分になりたい。

結局自分が機嫌よく過ごすのが一番、周りを幸せにするのだと思う。

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家族や恋人を失った人の気持ちを思うとやるせない。
亡くなった皆様のご冥福をお祈りいたします。
熱くなく寒くなく、穏やかに眠れますように。

#怒り #アンガーマネジメント #祈り

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