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週刊すわ「ひとものがたり」の原稿が上がった

 週刊すわの「ひとものがたり」に掲載される原稿が昨日、Wordで上がってきた。テープに録音もしながらの約3時間のインタビューを経たわけだが、その割に、原稿は短く、簡素に書き上げてある。スッキリとした文章だ。そして、迂闊にも、読みながら涙がこみ上げた。鼻水をすすりながら、自分のことがかかれている文章を読んで泣けるとは、なんじゃ!喝。と、心を入れ替えて冷静になろうとするが、感情的な世界に引き戻されてしまった。

 パン作りの始まりから現在に至る時制の中に、きちんと私のポリシーが、それと分かるような言葉で織り込んである。深く読ませる文章。さすがだなと思った。

 我が事ながらうるうるしたというのも、現在、使用している国産小麦粉の扱いの難しさを痛感した時、まともなパンができるまで、かなり苦労したのと、途中で、まともに焼けないんじゃないかと、できなかったらどうしようという不安との葛藤が、夢にまで出てきて私を苦しめた。この粉で何度もやり直し、納得の行かないパンと向き合い、何が原因か、作業を振り返ることを何度も繰り返した挙げ句、湯種製法の食パンに自分で90点を上げられるようなパンが焼けた。でもまだ90点。果たして残る10点をクリヤーできるんだろうか?常にそういう疑問と不安の入り混じった心境だった。

 なぜ、この粉に拘ったのか?答えは、市場原理というもので、需要が少ないから安価。なのに、栄養価は小麦粉の最高点だからだ。だが、この粉に決まるまでの経緯に触れておきたい。

 昨年、小麦粉が高騰した。北海道産のブレンド小麦粉をそれまでは使用していた。家でパンを焼くようになって20年近くになるが、その大半がこの小麦粉に助けてもらってきた、慣れ親しんだ小麦粉だ。これが、業者価格でも25kg1万円超えになった。7千円代だった頃でも、この小麦粉で焼いた食パンから利益は殆ど無い(付加価値は高いけど、田舎で高級パンが飛ぶように売れる事はない)ため、商売人の素質などない私なので、いつか、飛ぶように売れることを願って、今は地味に美味しいものを提供し続けると決めていた。が、1万円を超えてしまってはどうにもならない。続ければ赤字になるだけだとわかった時のショックは、言い表せないほどだった。お店を始めたばかりだというのにだ。

 ここで諦めてはいられない。決意を新たに、どこかに、もっと安価に入手できる粉があるはずだという気持ちだけで探し始めた。

 三重県の製粉会社にあった。破格だ。25kg4千円。しかも北海道産の「春よ恋」の単一種だ。この「単一種」が、実は、曲者だった。ブレンド粉ではなかった苦労の繰り返しとなった原因は、この単一種だからが50%、「タイプ50」という品名の、この粉自体の原因が残りの50%、パン作りを難しくした。

 価格は文句なく安価だが、「タイプ50」という品名のこの粉、小麦の玄米を想像して欲しい。小麦の玄米から製粉して、約半分のところまでのがこの「タイプ50」の由縁。そして、市販の真っ白な小麦粉は残りの50%に当たる。おわかり?小麦の殻から表面の50%の部分には、繊維質や胚芽も含まれた栄養価の高い部分だ。残りの白い部分は栄養価の少ない、私に言わせると「カス」のデンプンなのだ。昭和時代は、茶色の小麦粉が市販されていた記憶があるが、ほとんどは、真っ白な、キレイな色の小麦粉が主流だった。これが私達の食文化なのだ。

 「タイプ50」は、人には見捨てられた、繊維の多い、栄養価の高い、茶色の小麦粉なのだ。パン生地の生命線であるグルテンの話になるが、「タイプ50」の繊維質と胚芽の割合まではわからないが、中心の白い部分よりはグルテンは少ないと見るのが妥当。低グルテンの小麦粉相手に、それとは知らずにずいぶん泣かされた私だが、栄養価の高さを諦めたくなく、人に見向きもされない、捨てられてきた部分だけに、なんとか私の手でパンにしてあげたかった。パンとして、日の目を見られるように。

 湯種製法というハードルの高さもあったが、90点を上げられるパンが焼けたときは、達成感と、このパンならきっとお客さんが喜ぶはずだという確信めいたモノがあった。

 結果は言うまでもない、この食パンを食べたら他所のは食べられない、というお客さんの声をたくさん聞いた。温度を上げないように良く捏ね、長時間でゆっくり低温で圧力をかけながら発酵させた生地には艶があり、テカテカした焼き上がりになった。そして、軽いのにもっちりしっとり。誰もがそのように絶賛してくれるパンになった。

 見捨てられて、廃棄されていた小麦粉の「不要な部分」を一丁前のパンに育て上げた気分は最高だ。それが人に認められるようになるとは、それもパン職人冥利に尽きる。(もう、「主婦の道楽」なんていわせねぇよ!)全てが私に「頑張れ!」と、声をかけてくれていたんだなぁ。冷笑されたという受け止め方も、応援してくれていたに変わったゎ、あっはは。

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