世界が困らなくても僕はさびしい

夏は弔いの季節なのだ、と誰かが言っていた。6年前の8月に旅立ってしまった、一人の女性を思い出す。

まりさんと出会ったのは、彼女の誕生日だった。僕がまだ大学2年生の頃のことだ。彼女は、僕が当時付き合っていた女の子と仲が良くて、飯田橋にあるカナルカフェで一緒にお祝いをした。

「ごめんね、入稿がおしちゃって」

予定の時間に40分ほど遅れてきたエディトリアルデザイナーの彼女は、口を開くなりそう言った。「入稿」という言葉と、高級そうな黒い服に身を包んだ彼女に、出版業界に憧れていた僕は「わあ、業界人だ」と胸を躍らせた。華奢な体と、儚げな表情が美しい女性だった。

その女の子とは間もなく別れてしまったけれど、まりさんとの交流は続いていた。彼女は、何を気に入ってくれたのかは分からないけれど、僕のことを“弟くん”と呼んでかわいがってくれていた。

まりさんと知り合ってから1年ほど経った頃、彼氏からDVを受けて部屋が荒れてしまったので、片付けを手伝ってくれないかという連絡があった。神楽坂にある、まりさんの家に行ったのはそのときが初めてだった。

部屋に入ると、家具が倒れ、物は散乱し、ゴミ屋敷のようになっていた。二人で協力して倒れた家具を起こし、皿や本や服をあるべき場所に戻していく。部屋が、徐々に元の姿を戻し始めると、まりさんによく似た女性の写真が飾られていることに気がついた。

「昔ね、モデルをしていたの」

この頃のまりさんの容姿は、僕が1年前に会った時とのそれとは違っていた。歯は欠け、髪はボサボサになり、目はうつろでどこを見ているのかわからない。生まれつき抱えていた、肝臓の重大な疾患に加えて精神的な病も患っていた。写真とはあまりに掛け離れたまりさんの姿にショックを受けた僕は、とっさに「へえ、すごいですね」とだけ返した。

心身ともにボロボロになった彼女を見兼ねた僕は、週に1回のペースでまりさんの家に通うようになった。僕が部屋に遊びに行くと、彼女は決まっておいしい食事を振る舞ってくれた。料理家の母を持つだけあってか、そこいらのレストランよりもよっぽど味がいい。ほうれん草入りの特製カルボナーラは、特においしかった。

でも、幸せな食事の時間のあとには、彼女が数種類にも及ぶ薬をおもむろに取り出して、炭酸水と一緒にガバガバと胃に流し込むのを見なければならなくて、それがつらかった。手慣れたもので、10錠近くある錠剤を一回で飲む。彼女がどんな心と身体で生きているのかを、その時の僕は初めて知った。

僕がまりさんの家に通っていたある時期、就職活動や両親との関係が嫌になって、悩みを相談したことがあった。そんな時、彼女は決まって「ここはシェルターなの。ここにいる時だけは、頑張らなくていいのよ。生きているだけで、つらいんだから」と言った。今思うと、彼女は、自分自身に言っていたのかもしれない。心の病がひどくなると、まりさんはデザイナーの職を失った。

日に日におかしくなっていく姿に引いてしまった僕は、まりさんと疎遠になっていった。誘いがあっても「研修があるので」「卒論が……」と、何かしら理由をつけて断った。それまではいつだろうと、それこそ電車がなくても「タクシー代払うから来なさいよー」と言われ、バイトがある時以外は必ず行っていたのに、だ。“姉”はショックだっただろう。悪いことをした。本当に悪いことをした。ミッシェルガンエレファントのミュージックビデオを見ながらハーブティーを飲んだ、シェルターでの思い出が頭から離れない。

自殺未遂をする度に「私が死んでも、世界は困らないから」と、まりさんは言っていた。「そんなことないですよ」と、当時の僕は、その時なりに必死に返事をしたけれど、何の気休めにもならなかっただろう。

ねぇ、まりさん。地球は、あなたがいなくなったことなんて、屁でもないように回っているけれど、僕は時々、あなたを思い出しては、もう二度と会えないのだと、行き場のないさびしさを胸に抱いています。

「世界が困らなくても、僕はさびしいですよ」

そう言っていたなら、何かが変わっていただろうか。

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