フェアリーアンクルの鈴村さん【3】
サイは投げられた
「派遣契約は6月までということになりました」
面と向かってニコニコと、そう、ニコニコとしか形容できない笑顔で告げられた。笑うしかない状況とはつまり、もしかして今、この状況のことをいうのだろうか?
4月も半分を過ぎた、穏やかな朝に突然それは投下された。まだ始業前でモーニングルーティンのお茶を淹れて席に戻ってきたわたしを、イスに座る前に声をかけてきたこのオッサン(一応上司)はこれから8時間、一体どんな気持ちでわたしに仕事をしろと言うのか。
これでも派遣社員として長く働いてきたベテランだ。契約終了のカードを切られたらそこで終わり、自分の意思ではどうにもならないことくらいわかっている。だから今更、動じたりしない。
というか、問題はそこではない。
「ご提案なんですけど、よろしければ7月からTTさんで働いてみませんか?実はあちらのGMさんとも話がついてるんです」
TTとは取引会社のひとつで、わたしのいる部署とは何だかんだと繋がりが深い。……知らんけど。そもそも会社同士の話に関係あるのは正社員だけでしょ、普通。
だから、何を言い出したのかわからなくて混乱した。7月からの仕事の話?わたしの?それはどういう意図で?そして、どの立場で?
「あちらもご存じのとおり人を募集をしているらしいんですけど、なかなか集まらなくてですね」
でしょうね。わたしが担当しているこの2年の間に経理担当者が4人も替わってますからね。半年に一回は「はじめまして」と「さようなら」の挨拶を繰り返していることになります。……知らんけど。
「リクルート活動にご苦労されているようでして。そこで、あなたならうちの会社の事情もTTさんのことにも通じていらっしゃるので適任だと思い推薦したところ、是非にと仰ってくださってます」
いやだから、ちょっと待ってくれ。話がおかしい。確かにあなたはわたしの上司かもしれないけれど、それは今、この仕事に限る話だということをわかっていない。この人、わたしのことを自分の持ち駒だと思ってる。
瞬間、ニコニコ笑うオッサンを前に、わたしの心は潮が引くように一気に遠ざかっていった。そのことが面に出ないよう、顔の筋肉を総動員して笑みを形づくる。
わたしの中で何がキレた。
これは決して自惚れではなく、わたしが行けば即戦力なのは間違いない。双方の会社事情にも仕事にも通じているわたしは、新規で人を雇うよりもいろいろと説明や教育の手間が省けるというわけだ。
「悪い話じゃないと思うんですよ。私もあなたがTTさんで働いてくれれば安心です」
でしょうね。派遣社員といえどクビを切ったという罪悪感から解放されますものね。むしろ感謝されるくらいに思っていたりして。そう、だからこそ、こんな仕打ちができるわけだ。
「少し考えるお時間をいただけますか?」
「もちろんです」
「ありがとうございます」
わたしは能面の笑みを顔に貼りつけたまま、その場を辞した。そして今日一日、そのまま自分の業務を全うした。
勝手にしやがれ。
随分と都合の良いシナリオを書いてくれたな。それがわたしの率直な感想だった。
1秒だって残業する気になれなかった。とっとと帰って1人になりたかった。
……てか、なんでわたし?
TTは書類上のミスや手続き関連のミスが頻発していて、わたしたちも困っていた。だから社員の誰かが出向するという話が何年も前からあったらしい。でも、誰も行きたがらなかったし、断った人もいたとか。
正社員がダメなら派遣社員を送ろうとでも考えたんだろうな。でも、派遣社員は正社員のように出向ができない。だから一度契約終了して、新規契約をすればいいと思いついたんだろうけど。
でも、だからって、なんでわたし?
行きたいなんて言ったことはないし、あと1年は今の職場で働けるはず。それなのに、なんで?どうして?と思いながら心当たりがないわけでもない。
おそらく日ごろから文句も言わずひたむきに、せっせと働いていたのが仇になったんだろう。みんなは何かと意見(グチ)を言っていたらしいから、大人しいわたしなら思い通りに動いてくれると考えたんだろうな。わたしはただ、自分の業務を全うしていただけなのに。
だから、相談したところで目に見えている。「いいじゃん!」そう言って喜ぶみんなの姿が。わたしがTTにいけばみんなも仕事がやりやすくなる。
でも、だからって……。
確かにいろいろと納得のできる、一見して筋の通っている完璧なシナリオかもしれないけど、そこにわたしの意思はない。そこの筋は通さなくていいんかい!
それとも、向こうの上司に話をもちかける前に当事者であるわたしに一言あってもよかったんじゃないかと思うのは、傲慢なのだろうか。わたしの方が何様のつもりだといわれるのだろうか。そう指摘されることも怖くて誰にも話せない。
『全部言ってやればいいじゃないか』
その声が頭に響いてきたのか、それとも耳に届いたのか。そんなことはもう些細なことだと思えるようになっていた。何故ならこれで3度目だったから。その声を聞いたのは。
「言ったところでどうにもならないことってあるんだよ。みんなにはみんなの意見があって、わたしの意見なんて知ったこっちゃないんだろうから」
頭を起こして姿勢を正すと、やっぱりいた。テーブルの上に小さいおじさんが。わたしが買ってきた白いレアチーズケーキを興味深そうに見つめている。わたしはその封を切り、小さいおじさんの前に差し出すように置いた。
『食わんのか?』
「そんな気分じゃないから」
じゃあ、どうして買ってきたのか訊かれるかと思ったけど、それよりもどこから食べようという方が小さいおじさんにとっては重要らしく、まるで山を目の前にした登山家のような仁王立ちでレアチーズケーキと対峙している。その姿にだんだん心がほぐれてきた。
早く帰って1人になりたかった。だけど、1人になりたくもなかった。そんなわたしの小さな願いをきいてくれるのは小さいおじさんしかいないと思っていた。だからもう、都市伝説とかそういうのどうでもいい。
『それでも、あんたの腹はもう決まってるんだろう?』
「え?」
『言わないからって意見がないわけじゃないからな』
小さいおじさんはレアチーズケーキを見つめたまま、だけど、その言葉はわたしに向けられていた。わたしはテーブルに肘をつき、小さいおじさんを見る。
さすが小さいおじさん。そうだよ。わたしは知識欲と好奇心が旺盛で、自分に何が足りないかを知っている。そんなわたしにとって仕事は学びの場だ。
「だから、自分がどこで何を身につけたいか。自分で決めたいの」
契約期間で縛られるこの働き方は確かに不安定で、自分以外の意思決定によって突然職を失う。今回のように。だけど、わたしはそれを受け入れていて、そこからどう動くかの選択はわたしのものだ。誰のものでもない。
6月でキッパリ、今の仕事を辞めよう。新しい世界に飛び込むことは嫌いじゃない。むしろ、この歳でまだ知らないことがたくさんあるってワクワクする。
「おじさん、やっぱりケーキ半分こしない?」
わたしの提案に小さいおじさんは顔の半分だけで笑った。悪そうな顔。だけど、わたしもそういう顔で笑いたい気分だった。
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