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中原中也の埋もれた名作詩を読み直す。その17/(何無 ダダ)



寿福寺近くの踏切から北鎌倉方面を眺める。この景色は、中也が見たのとさして変わりがないか。


「早大ノート」の中には
極めてダダっぽい作品があったり
ダダ的な詩句がある作品があったりしますが
(何無 ダダ)は
ダダイズムが
中原中也の詩の叙情に
叙情以上のもの
叙情以外のものを与えている

叙情に独特の強度を与え
叙情が叙情でなくなり
抒情詩ではないものに変成される
見えないバネになっている
――という意味で重要な位置を占める作品です。

(南無 ダダ)

南無 ダダ
足駄(あしだ)なく、傘なく
青春は、降り込められて、

水溜り、泡(あぶく)は
のがれ、のがれゆく。

人よ、人生は、騒然たる沛雨(はいう)に似ている
線香を、焚いて
部屋にはいるべきこと。

色町の女は愛嬌、
この雨の、中でも挨拶をしている
青い傘
植木鉢も流れ、
水盤も浮み、
池の鯉はみな、逃げてゆく

永遠に、雨の中、町外れ、出前持ちは猪突(ちょとつ)し、
私は、足駄なく傘なく、
茲(ここ)、部屋の中に香を焚いて、
チュウインガムも噛みたくはない。

※タイトルがない詩は、冒頭行に( )をつけて仮題とする習わしになっています。

(何無 ダダ)の叙情は、
一筋縄(ひとすじなわ)では括(くく)れない
どんなふうにも読めるような
奥行きがあるようで、
いっぽう
「宇宙は石鹸だ、石鹸はズボンだ」(高橋新吉)
「小猫と土橋が話をしていた」(中原中也)のような
単純な観念反応
もしくは冗句と読めるような
多義性、
二重性、
二律背反性をもっていて
そのことが詩の強度を作っています。

うまく言い切れませんが
(南無 ダダ)には
陰惨さと
明るさ

土砂降りの雨の中に
ポッと晴れ間の射すような

泥濘(でいねい)に咲く
蓮の花のような

明るい曇天
清らかな汚れ
みたいなもの

聖性というか
カオスとコスモス
混沌と世界

そのようなものが
同時に存在している
共存している
と、感じられて仕方ありません。

これは、
「ダダイズムの影響を受けた中原中也の詩風に、最後までどこか破調めいたところがあったのに対して、三好達治、丸山薫らの新詩精神との接触には、そのような破調や騒がしい表現がなかった」
――と、「現代名詩選(下)」(新潮文庫、昭和44年初版)の
編者・詩人の伊藤信吉が書いているところに
通じるものです。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏
ナンマイダナンマイダ
なもあみだぶつなもあみだぶつ
ナモアミダナモアミダ

「何無」については、
意味を追わないほうがよいでしょう。
キリスト教の「アーメン」同様、
たどれば、深遠な意味がある語句のはずですが、
おまじないの言葉くらいにとらえておいて、
さほど、的外れではないでしょう。

オー、マイ、ゴッド!
ああ ダダよ!
ほどの感じ。

しかし、
この詩の内容は
陰惨で、
宗教的な響きすら感じさせます。

雨は降り止むことがなく、
履く物もなく、
傘もなく、
青春そのものが
ずぶ濡れになっちまった詩人は
茫然として、
水たまりの、あぶくが、
流れて行く様子を眺めています。

心の中まで
ビショビショに濡れているのに
健気な詩人は
人生は騒然たる沛雨に似ている
人生はザーザー降りの雨のようなものだから、
線香を焚いて
部屋の中で
じっとしていなければならないことだってあるのさと、
自ら励ますかのようです。

詩人は、
歓楽の町にやってきて
雨にやられたのでしょうか

今しがた
青い傘をさした女が
通りに出て、
愛嬌を振りまいているのを目撃しました。

大雨で、
浸水した通りは
民家の植木鉢も水盤も流され
飼われていた鯉も流され、

出前持ちは
降りしきる雨の中を
走り抜けていきます。
足駄というのは、
この場合、長靴か、

私は、
履く物もなく、
傘もなく、
こうして、
部屋の中で、
線香を焚いて
神妙にしているばかりで、
チューインガムも噛みたくないのです。


中也君です。最後まで読んでくれてありがとう!

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