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 先日、地元の盆栽美術館に行った。その美術館には、樹齢150年から800年くらいまでの様々な盆栽が展示されていた。

 僕は盆栽は初めてだったので、どれをどう見たら良いのかまったくわからなかった。文明の利器を用いてちょっと調べると、盆栽はまず正面(作者が決めたある一つの方向)から眺め、その後で上から下から後ろから眺めて楽しむのが通常らしい。

 僕はなるほどと思って、チケット買って入って、一番手前の五葉松をまず下から見た。ひねくれ者だ。

 下から見ると、その五葉松はどんと大きくなって、僕はみるみるうちに小さくなった。まるで大木を仰ぎ見るような心持ちで、五葉松は高く、威厳があった。外の輪郭は太く、中の線は細かいので、松の力強さと繊細さが共存していて、リアリティがあった。こりゃあすごいぞと僕は思った。それから、正面、下、横と眺めると、これまた様々に印象が異なって、まったく見飽きることがなかった。

 中でも樹齢500年くらいの五葉松には圧倒された。これは正面から眺めるだけで十分だった。否、五葉松の方で僕に正面以外の方向から眺めさせるのを許してくれなかった。その松と10分ほど対峙してみたがだめだった。五葉松は僕を受け入れてはくれなかった。

「俺と話をしたけりゃあ、せいぜい100年くらい生きて見ろ、それから来やがれ」と言われたような気がして、息をとめてお腹にぐっと力をいれてそれから嘆息すると、情けなくなった。

 老松の、黒く太い輪郭、白くゴツゴツした樹皮、土からはみ出る大蛇のうねるような太い根っこ、鋭い葉や枝から湧き出る生命力、その生命力の底に沈んでいる得体のしれない力(エネルギーみたいな)の流れ。そんなものを見た。老年の五葉松の厚さと重さが、薄っぺらい僕には心身に堪えたのかもしれない。1つを見るだけでだいぶつかれた。

 さて、この盆栽美術館には「盆石」なるものの展示が期間限定で行われていた。

 「盆石」とは、白砂と自然石を用いて山水の風景を描くものである。黒漆塗りのお盆に自然石を置き、それから白砂を敷いて小さなほうきで掃きながら山水の風景を立体的に描く。砂絵の上に石を置いたたとえがわかりやすいだろうか。石が置かれることで、風景がかなり現実じみてくる。

 盆石も、まず正面から眺めるのが一般らしい。白砂絵の遠近がしっかりしているから、正面から見ると奥行きがある。素人の僕にとっては盆栽よりも盆石のほうが楽しみやすかった。白黒という色彩も直接的でわかりやすい。人によって白砂絵の線が太かったり、細かったりするから、ああこの人は豪胆だとか、この人はやさしいとか勝手に決めつけながら味わい楽しんだ。

 1つ困ったことがあった。石だ。山水の風景内に置かれる石は、もう岩と呼んでも良いものかもしれないが、その岩を含めて「石」と呼ぶとして、僕の持つ何物も石には通じず、石も僕に対して何も言わなかった。

 黒漆の盆上の自然石は、作為的に置かれているのであるが、石は作為に屈服しているとはとうてい思えないほど、ただその形をして、ただ存在していた。

 僕は石にどういうアプローチをして挑んだのだろう。およそ、解釈とか意味とかというものを武器にして挑んで、あっけなく砕け散ったのだろう。僕と老年の盆栽にあったギリギリの関係も石にはなかった。石は飄々としてじっとしている。なにも言わず、動かざる石は、我々生き物とは少し異なる次元にいるのかもしれない。

 現実世界で生きる我々には、解釈や意味は必須の武器なのかもしれない。まして、世界をぐるぐる回すことに忙しい現代人たちにとって、それらの武器は目の前の事物を次々と切り捨てるためにうってつけだ。古代から、そんな武器みたようなものはあったに違いない。その点では昔も今も変わらない。だが、すくなくとも僕は石を切れなかった。武器を持っていたのは確かだ。

 石にとって、こちら側がどう解釈したかなんてことは永遠に関係ないのだ。石は人間になんか動じない。動じないから、僕は困った。不安が突然押し寄せて、冷や汗みたいなものが一滴、僕の顔を流れた。それでも不動の石に美しさを感じ、静かに興奮した。だから石を言葉で形容することはしなかった。

 関係を持たずとも、僕の前にいやというほど石は存在していた。

 入館してから2時間ほど経って、僕はその美術館を出た。かなり疲労しているのがわかった。僕は神経のすり減った頭を動かして、ぼーっと空を見上げた。空にはどんよりとした暗い雲が一面に広がっている。雨が降りそうだった。帰路についていると、道端にふと日の光が差した。僕は道端の小石を蹴ろうとして、右足を少し後ろに引いた。

 
 
 振った右足は鮮やかに空を切る。

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