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解脱後の阿難

「さて阿難尊者よ、次に法孫についてそなたに予言的に申して置かねばならぬことがある。それは、王舎城に商那和須といえる商人がある。この和須は先頃から珍宝を求めて海に出でているが、後年多くの宝をもちて、王舎城に帰り、大いに大法を保護し、仏寺を建て五年に一度の大会を開き後に出家するであろう。この人は実に才高く、智慧深き人物であるから、そなた滅後には大法は、この和須にも付嘱されるがよい」

と眼を宙にむけるようにしていうのであった。

阿難は大迦葉からその他種々の指示を受け、大迦葉の入滅をみとると、竹林精舎に帰って来た。

後に大迦葉の予言のごとく、商那和須は珍宝を携えて海より帰り、いち早く竹林精舎を訪れて来た。

阿難は額秀で頼ふくよかな商那和須を迎えて、大迦葉の予言のすべてが、そのまま現われることを信じた。

和須は阿難尊者から、釈尊を初め、舎利弗、目連、大迦葉等々の入滅を告げられると、彼は驚きのあまり、大地に介れ、暫くは失心してしまったが、阿難尊者に抱き起こされ、懇切に法を聞かされ、それ以来阿難尊者に師事して心を磨きつづけ、その財を仏教興隆のために惜し気なくも投じ、教法を保護していった。しかし、大迦葉の予言の如く、五年の後には遂いに出家して阿難尊者にっき従うようになった。

大迦葉没後における阿難の立場は、大迦葉によって大法を嘱されたことによるばかりではなく、必然的に教団の中心者となっていた。得道前の阿難には自ずから人を圧するような権威が備わっていなかったが、解脱後の阿難には持ち前の柔和さ温厚さに加えて、うちから自ずと発する光明が、むかい合う人々に思わず頭を下げさせる程の権威力になって、婆羅門外道の人々をも、畏れさせるようになっていた。

その頃、摩詞陀国王阿閣世と阿難との親交はさながら兄弟の如く深く、大王は教団最高の保護者であった。阿難は時にふれては阿閣世やその家臣たちに道を説いて、仏教を行に現わすことをすすめていた。

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