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「外国人」「日本人」って一体、誰のことだろう

結婚してから、よく言われることがある。
「外国人の旦那さんなら、絶対優しいでしょ!いいなー。」
「子どもができたらハーフじゃん!ハーフの赤ちゃん絶対可愛い!」

・・・。「外国人」は全員優しいわけじゃないし、「日本人」だって優しい人はたくさんいる。「ハーフ」の赤ちゃんだから可愛いわけじゃなくて、赤ちゃんは誰だって等しくみんな可愛い。しかもここでいう「外国人」は、たいてい「欧米人」のことだ。わたしが中国や韓国の人と結婚していたら、どんな反応になっていただろうか、と疑問に思ってしまう。
それにわたしは、彼が「外国人」だから結婚したわけではない。結婚したいと思えた相手が彼で、その彼がたまたまフランス人だっただけだ。

「外国人」でいること

夫は日本に来て4年弱。「外国人」という大きな枠にくくられている、と感じることは多いようだ。
例えば先日、出張で京都に行ったとき。1人でカフェに入ったら、店員さんに英語で話しかけられたらしい。しかし日本語で受け答えをしても、英語で返された。観光客が多い京都の店員さんにとっては、それがホスピタリティなのかもしれない。だが、見た目だけで「外国人」と判断して、日本語が話せる相手に対して英語で話すのは、彼へのリスペクトが足りないように感じてしまう。

見た目で判断する、というのは危険だ。仮に夫が、両親はフランス人だが日本に生まれ育ち、英語が話せなかったとしたら?「外国人」の見た目だからと英語で話しかけるのが失礼に思えるのも、想像に難くない。

このようなことは夫と2人でいるときにもある。彼が日本語で質問や注文をするとき。話しているのは彼なのに、「通訳してよ!」という眼差しを向けて、わたしに話しかけてくる人もいる。わたしが通訳しなくても、もちろん彼は理解している。

日本に来て日本語を勉強し、3年ほどで生活に不自由ないレベルに達した夫。こういう経験の積み重ねが、彼の言語力への自信を失わせかねない。わたしだったら「自分の言語力が足りないのだろうか」と不安になる。

逆もある

こういう話になると、「"日本人"ってそういうところあるよね」という議論になる。でもそれは違う。

逆だってある。
夫の両親が日本に来たとき、「あの店員さんは(振る舞いが)日本人らしくない」といった発言をしていた。彼らも悪気があったわけではないが、わたしがこういう発言が嫌いだと知っている夫は慌てて止めていた。

アメリカ留学中には、語学学校で「アジア人なのにこんなに高いレベルのクラスに来れたんだね」と、なんと担任教師に言われた(たしかにそのクラスにはアジア人が1人だった)。そのクラスでは「Rieはアジア人だから理解するのが難しいかもしれないけど」という一言をつけて、単語や文法を解説された。たしかに日本語よりも欧米諸語の方が英語に近い。でも「欧米人」でも英語が話せない人もいるし、「アジア人」でも努力して英語を身に着けている人もいる。教師に対して抗議をしたこともあったが、悔しかった。

また、日本にいる「欧米人」は道端でジロジロ見られることが多い、というエピソードを聞いたことがあるかもしれない。でもこれは日本だけではない。以前フランスの小さな田舎街に行ったときには、わたしもジロジロ見られた。容姿が違うから珍しいのだろう。

果たして、「"日本人"ってそういうところあるよね」と言えるだろうか?このようなエピソードは、世界中どこにでもあるはずだ。
「日本人」「外国人」という大きな枠にくくることはナンセンスに感じられる。

国や地域によって、文化や傾向はもちろん異なる。でも「文化の違い」は家族間、個人間でもあるものだ。たしかに「大きな主語」は便利で、わたしも使うことはあるし、見た目で判断してしまうこともある。
ここに書いたエピソードは、誰も悪気があるわけではないと思う。でも、悪意のないラベリングが他者へのリスペクトを欠いてしまったり、傷つけることもあるのだと意識したい。一人ひとりが持つバックグラウンドは様々なのだから、それぞれを尊重したコミュニケーションを心がけたいと思う。


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