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ブレゲ(Breguet)を愛した王妃

みなさん。こんにちは。

ゴールドプラザの大嶋です。

※写真は8年前です


先週ご紹介しましたブレゲ(Breguet)について。


ブレゲ(Breguet)の誕生や創業者であるアブラアン-ルイ・ブレゲの生み出した数々の発明であるその一部を書き連ねました。

で、西暦を付け足しながら紹介をしていたのですが。


西暦とブレゲの活動拠点から何か気づいた点はありませんか。


そう!

フランス革命ですわな!!!!

以前に書いたハリー・ウィンストン(HARRY WINSTON)とホープダイヤモンドにおいてもフランス革命に触れています。

フランスの歴史が大きく変わる激動の時代。

王族と国民が大激突していた中で、もう一つ。
時計の歴史と技術もブレゲによって劇的に発展していったんですね~


そして!!!!!

王族といえば!フランス王妃マリーアントワネット!!!!!

ヴィヴ・ラ・フランス♬


(育成してなくてごめんなさい)


王妃はブレゲ(Breguet)の愛好家としての一面もありました。


マリー・アントワネットと聞くと浪費家のイメージが未だに蔓延っておりますが。蔓延っておりますが!!!!!!が!!!!!!

決してそんなことはありません。

マリー・アントワネットにまつわる大半の噂は宮殿内で王妃を快く思わない貴族共が流した噂や偽りの歴史に過ぎません。

元々、マリー・アントワネットはオーストリア生まれのハプスブルク家という超名門家のお嬢様でありオーストリアの女帝、マリア・テレジアの娘でした。やがてフランス王家に嫁いだマリー・アントワネットは、王室への贈り物という名の賄賂を禁じたり宮殿内で貧しい民たちへの募金を度々に募っていました。

そんな彼女の行いに目くじらを立てていたのがデュ・バリー夫人を筆頭とした貴族たちでした。

デュ・バリー
1743年8月19日-1793年12月8日


デュ・バリー夫人はマリー・アントワネットがやってくる前まで宮廷を牛耳っていたルイ15世の愛人でした。


自分たちの誇りとして培ってきた(貴族としてのし上がっていく)手段が無くなったことに不満だったのでしょう。財政悪化により国がどんどん傾いていく中、バリー夫人とそれに従う貴族たちはマリー・アントワネットの悪評を宮廷から街中へと吹聴していきます。特に首飾り事件は決定的となり国民はフランス革命へと走り出してしまうのでした。

目くじらを立てるデュ・バリー夫人


個人的に気になっているのがヴァレンヌ逃亡事件ですね。
国外へ逃げていくルイ16世と王妃であるマリー・アントワネットの運命を掛けた逃亡劇が小説であるそうです。焦燥感や緊迫感、手に汗握る様子をこの目で確かめたい。



話が逸れました。

王妃マリー・アントワネットとブレゲ(Breguet)の話でした!


マリー・アントワネットはブレゲ(Breguet)の複雑式で当時最先端の時計技術にいたく感激し、ブレゲ(Breguet)の時計を何本も所有する愛好家でした。

煌びやかさとはうって離れた無機質で正確無比なブレゲ(Breguet)の時計から雅やかさと美しさを見出したマリー・アントワネットは、宮廷内から国外を越えて王侯貴族にブレゲ(Breguet)の時計を度々勧めていたのだそうです。


極めつけはブレゲ(Breguet)の後世へと語り継がれるブレゲ№160、別名”マリー・アントワネット”でした。




-西暦1,783年-


ある日。ブレゲの元へ一人の男がやってきます。

男は「王妃の使者である」と名乗り、ブレゲにマリー・アントワネットへ贈るオーダーメイドの依頼をします。




「アンタの本気を見せてくれ。金ならいくらでも出す。時間はどれだけ掛かっても構わない。王妃の為に、世界で一番の最高な時計を作ってくれ!!!!!」




王妃へのアツイ気持ちをブレゲに語ったこの男。

実のところ、ホントに王妃の使者であったのかどうか…( ˘•ω•˘ )。
王妃の心を射止めたいが為にやってきた一人の貴族だったのか…(´-ω-`)。

熱狂的な時計好きが王妃の名を利用しアブラアン-ルイ・ブレゲの最高傑作をその手中に収めたかったのか…( ¯꒳¯ )。諸説語られています。

ともあれ、引き受けた以上は一、職人として最高傑作を作りたいところ。


が、数年後にフランス革命が勃発。ブレゲも制作を一時中断しスイスへと避難することになりました。


さらにフランス革命によって王妃のマリー・アントワネットは処刑されてしまい、ブレゲの最高傑作を見ずに亡くなりました。


自身の傑作を見せられないことを知った時のブレゲは一体どんな心境だったのか。ブレゲの元へ尋ねた使者も本物であったのなら。王妃マリー・アントワネットはオーダーメイドの完成をきっと心待ちにしていたと思います。


王妃が亡くなった後も制作を続けていたブレゲでしたが、西暦1823年にアブラアン-ルイ・ブレゲはこの世を去りました。残された弟子たちによってようやく完成した№160”マリー・アントワネット”は王妃が亡くなってからおよそ34年後の事でした。


当事者であったはずの王妃もブレゲもいなくなってしまった世界に残された№160を想像すると、どこか寂れたような切なさを感じます。


-次回-


消えた№160



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