アナクロニズムの系譜

「祀られるべき神ではなく、鳥居がまず存在している。その後に、祠の中に大蛇や手討ちにされた下女やら殺された六部といった、余り人前では言えないような神々が、勝手に入り込み、神威を揮い、信仰の対象に成り澄ます。」(福田和也『日本の家郷』新潮社1993年,p.49)

家郷は何処に在るのだろうか?

「善が存立するためには、人間は「一度も存在したことのない過去」を自分の現在「より前」に擬制的に措定しなければならない。そのためにこそ、そのつどすでに取り返しがつかないほど遅れて到来したものとしておのれをいちづけなければならないのである。・・・人間はいまここに存在することを、端的に「存在する」としてではなく、「遅れて到来した」という仕方で受け止めることではじめて人間的たりうる。」(内田樹『私家版・ユダヤ文化論』,pp.224-25)

ないものは強迫的に存在したことにされねばならないのである。それは端的に言って捏造である。

「しかし、実際に近代文明を作り上げ、都市化を選び、田園的ゲマインシャフトを棄てたのはユダヤ人ではなく、ヨーロッパ人自身である。自己がしたことを否認し、その加害者を外部に投影し、自身をその被害者に擬するというのは精神分析的にはよく知られた規制である。」(内田樹『私家版・ユダヤ文化論』,p.202)

みずから捨てたというのももちろん言い過ぎであろう。

作者自身のテクストに対する遅れ、時間錯誤(アナクロニズム)的に関わることしかできず、けっして出来事の十全な受取人にはなることができず、それを自分のものとすることができないのと同様に、読者である僕たちも、作品というテクストをとおして無数の読み違えを繰り返している。


「《ああいい さっぱりした/まるで林のながさ来たよだ》というこの特異な声の出来事、どんな意味にも解消できない翻訳不能の出来事を、まさに異物のような起源として、テクストが書かれ、そしてそのなかではじめて詩人は、この声に対して応えるべき言葉を返すのである。それは、対話、遅れてきた対話となる。一度もそれとしては起こらなかったかもしれない対話がいま起きる。過ぎ去った取り返しえない時間の感覚を置いて、しかし二つの発話の時間が対話の空間を生み出す。テクストという空間のもとで、途方もない時間錯誤の出来事が起きるのだ。」 (小林康夫『出来事としての文学』、p.26)

そう、家郷はアナクロニズムにおいて、その錯覚において初めて存在することができるのである。

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