高畑 勲 「結局、現実に還るしかない」

(主題歌「いのちの記憶」が流れる)あなたに触れたよろこびが深く深く、このからだの端々に染みこんでゆく・・・・
ナレ「高畑の8年に及ぶ映画づくりが終わりに近づいていた」
高畑「・・・映画こんなに優しくないよね、この映画は・・・・これで救ってもらおう」

(高畑 勲『かぐや姫物語』をつくる。~ジブリ第7スタジオ、933日の伝説~」より)

「高畑 ・・・不思議なことが起こればすべてファンタジーだと言うのならば、これもファンタジーだし『平成狸合戦ぽんぽこ』なんかもそうかもしれないけど、ファンタジーそのものを描きたいわけじゃないんです。映画の中の時空が現実の時空と通じ合っていてしかるべきだと思うんですね。密室でめくるめく体験を見せて興奮させるとか観客の願望をかきたててそれを満たして「あーよかった」と終わる映画は嫌いなんです。だって映画の中でいくら願望が満たされても、"癒やされる"だけで、現実を生きていく上で何の役にも立たないですよね。」(高畑勲×中条省平「プレヴェールというリアル」、『ユリイカ』「総特集◎高畑勲の世界」第50巻第10号、2018年7月臨時増刊号、p.134)

例えば作品内容とテーマ曲がまるで相反しているということは十分に考えられるのであるが、観客のレベルからすればそれが失敗作と評価されてしまう可能性も十分に考えられるのが現実なのかも知れない。

表現それ自体と誤解されかねない時間錯誤、強く希求されているだけのものとしての「救い」と言えば、映画『 #この世界の片隅に 』のエンディングテーマ「たんぽぽ」もまた、まさにそんな曲だったといえよう。この屈折した表現に表現者から観客への周到な挑発を感じ取れないとすれば、それはそれでやはりある種の挫折であるといえよう。


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