どこまでもつきまとう「他者」の登場

紀元を前後してヘブライ社会とヒンドゥー社会の両方でどこまでも私につきまといお前を幸せにしてやろうという、今で言えばストーカー的他者が歴史の舞台に登場する。

かたやキリストの隣人愛の教えであり、かたや大乗仏教の絶対他力の教えである。

「相互に同じ規則に従っていると考えられる限りにおいて、他の人との間には相互了解が成り立ち‥了解されている限りにおいて、相手は友人であったり、家族であったり、先生と学生であったり、という具合に相互の関係を明確化できる‥ところが、その既定に関係のいずれにも当てはまらないとき、
人は「他者」に変貌する
」(末松文美士『仏教vs.倫理』,pp.105-6)

ラカンのいう「他者」も、このように得体の知れない疎遠な、いやむしろ私に脅威さえ与えかねない「他者」として、パラノイアである我々の前に出現するものとして、正しく読み取られなければならない。

「『法華経』が提示する他者は‥「人の間」で日常的に相互に容易にコミュニケーションが成り立ち、了解されているような他の人々ではない。そうではなく、唐突に<人間>を超えたところで現れる理解不能の他者である。それが仏によって象徴される」(同p.130)

人間は過去の他者との因縁で現在を生きている。母に乳を与えられ、排泄物の始末をしてもらい、よき教師に出会い、生きるすべを教えられ、他者の作った生産用具を貸し与えられ‥というように。しかし、そのような「過去は長く忘却されている。他者との煩わしい関係などはやく忘却したい」と思っているかのようである。

「しかし、にもかかわらず、表層的に忘却されたように見えても、他者はどこまでも付きまとい、忘れたはずの記憶を呼び起こしてもやまない。」

そのように、「他者なしにお前など存在していない」と執拗に付きまとうのが『法華経』の仏である。

成仏不可能のはずの声聞・舎利弗が、将来成仏して華光如来となることを予言する釈尊の理屈は面白い。「じつは釈尊はかって二億もの仏のみもとで舎利弗を教化し続けてきた」(同p.132)のであり、釈尊との関係は突然生まれたものではなく、ただお前は「そのことを忘れていただけだ」と言うのである。
このように私を励まし、将来を祝福してくれる「他者」ならば確かに望ましいのものであるが、反対に、私の過去を執拗に責め立て、粘着する被害妄想の「他者」であったらどうか。パラノイアである私たちにとっては、どちらにしても同じ「他者」であることに変わりはないのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?