片渕須直 追悼・高畑勲『火垂るの墓』


「【ラジオクラウド限定】片渕須直×さやわか×荻上チキ「問答するから更新されていく」高畑勲作品の現代性を語る」から片渕監督の言葉(書き起こし)を再掲しておく。 gom_nori @gomnori1 2018年4月10日  #この世界の片隅に

 [『火垂るの墓』は戦争を描いた映画だとよく言われるが別の見方も出来る。 妹の死を前にして]   清太は自分が果たすべき現実原則的なことをしていない、[妹を]アイドル[偶像]として見るという快楽原則だけに溺れていたのに気づく。
 そこに肉体があるということはそこに現実原則が必要で、現実原則に則った行動が必要なのにそれを忘れていた。故に破綻して二人は死んでしまう。

 死が象徴的出来事だとすると、そこで描かれているのは戦時中の少年少女ではなく、今アニメを見て喜んでいる僕らなんではないか?
 だから多分宮崎監督だったら絶対描かないような妹の死に方をまじまじと描くと言う表現が必要だったと思う。

 あれは作品が要求したからこそああゆう痛ましい映画になったけど、でも肉体がある人物が死んでゆく様、肉体が亡んでいく様はきちんと描かなくてはいけない、そうでないとこの作品は全うしないのだと、その瞬間高畑さんは思ったんだと思う。だからああゆう作品になった。

 そして、あの映画は必ずしも戦争というものだけを描いているだけではなく、勿論戦争の痛まししさ、どんなことをもたらすのかということは秘めているのだけれども、多次元的に現在の我々のこと、ある種快楽主義的に、アニメーションというものを利用し、消費してしまっている我々のことも見据えて、そこに対するある種の警告、警鐘でもあったかのような気がする。」


『火垂るの墓』についての 片渕須直監督の言及は、アニメーション映画というものに対する表現者自身の禁欲的な姿勢を表明しているものと読めるだろう。宮沢賢治がファンタジーとして、ただただ「宮沢賢治的なもの」として消費され続けている状況であるからこそ。

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