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ポケモンと贈与の喜び

ポケモン交換の喜び、親善大使マジグマの決意


先日、noteで交流を持つようになった方とポケモン交換を行って、思うところがあったので、その話をする。

きっかけは、主にポケモン対戦について記事を書いておられるシオさんという方が、1万ビューを達成した記念に色違いピカチュウを配布する企画を催されて、それに参加したことだった。




昔の記事で書いた記憶があるのだけど、僕が子供の頃(RSE世代)は、ポケモンを友達と交換するためには「通信ケーブル」という特殊なデバイスが必要だった。小学生の子供には自費で購入なんてできなくて、子供にとっては通信ケーブルを持っていること自体がひとつのステータスだったような時代で、みんなでケーブルを持っている友達の家に集まって交換や対戦をしたものだった。


それから、昔も映画を見ると特別なポケモンがもらえるキャンペーンはあったのだけど、当時はゲーム機をサービスカウンターのお姉さんに渡して、不思議な機械を使ってデータを入れてもらっていた。あるいはDSに移行してからも、映画館内でしか通信できなかったので、ポケモン交換や配布には「現地性」みたいな感覚が強くあった。


そういう思い出があるので、オンラインで世界中の人と通信ができるようになった今でも、僕はポケモンの交換やフレンド対戦には特別な何かを感じてしまう。それで、今回も素直にピカチュウを受け取るだけでは収まらなくて、「自分も何か面白いポケモンをあげたいな」と思い、親善大使マジグマこと色違いのガチグマを贈呈することにしたら、とても喜んでもらえたみたいでよかった。


いいことは、ちょっと恥ずかしい。


ポケモンに限らないけど、子供の頃は「プレゼントされる」ことが嬉しくて仕方がなかった。誕生日やクリスマスはもちろん、お菓子をもらうようなささやかな贈り物でも、何かをもらうということには、ちょっと得をしたような、特別な嬉しさがあった。


もちろん、それは大人になった今でも変わらない部分もあって、誰かからちょっとしたものをもらうと、それはそれで嬉しいものだ。公式から特別なポケモンの配布が決まると嬉しいし、今回いただいたピカチュウも大切にしてあげたいなと思う。


でも、この歳になって思うのは、誰かから何かをもらうよりも、自分がひとに贈り物をする方が、はるかに大きな喜びがある、ということだ。


大学生の頃に読んだ本で、「お金による幸福には限界があって、最終的にお金持ちはボランティアや寄付に励むようになる」ということが書いてあった。例としてビル・ゲイツさんみたいな世界的大富豪の名前が上がっていたと思う。


当時は「そんなものかなあ」とあまり腑に落ちなかったけど、いまになって「そうなのかもなあ」と少し理解できるようになったと思う。ない間は、お金があったら幸せになれるだろうと思う。そして、それはある程度までは事実なのだけど、一定のラインを超えてしまうと、単にお金を所持していることによる効用は失われるという研究もある。


もちろん、人によって価値観は様々だから、「おれは自分の金は、びた一文たりとも他人にはくれてやらねえ」というひともいるだろうし、日本という国に長く住んでいると、なんだかそっちの人の方が多い気もしないではない。不当に日本を貶めるつもりはないけど、やはりキリスト教をバックボーンに持つ欧米諸国に比べれば、贈与や隣人愛に対する日本人の感覚はかなり疎いものがあるように思う。


なんだか自画自賛みたいに聞こえるかもしれないけど、僕がスタバで作業をしていると、ベビーカーを押していて両手の塞がっている女性が、ドアを開けられずに困っていることあって、店員さんが忙しそうな時は、僕が席を立って扉を押さえることになる。毎回必ずドアの前の席に座るわけではないので、たまに離れた席から他の客が同じ状況に直面しているのを眺める機会がある。


僕からすれば、大した手間も労力もかからないから、ちょっと席を立ってドアを押さえてあげればいいのに、と思うのだけど、今までに同じようにしている人を一度も見たことがない。目の前で困っている人がいても、みんなして「我関せず」みたいな顔をして鎮座しているので、なんだかびっくりしてしまうことになる。まるで気がついていないんじゃないかと目を疑うほど、まったく反応を示さない。


でも、考えてみれば「我関せず」の人の気持ちもわからないではない。彼らは別に困っている人に対して、自分には関係ないと思っているわけでも、他人はどうでもいいと開き直っているわけでもなくて、ただちょっと恥ずかしいだけなのだろうと思う。あるいはなんとなくタイミングを逃してしまっただけであって、そういう経験は僕にも数えきれないほどある。電車やバスで席を譲り損ねて、悶々とした気持ちで座っていることもある。


昨日は電車に乗っていると、目の前にほんのりとお腹の膨れた女性が立っていて、「この人、どう見ても妊婦さんだよな? でも、確信ないなあ」と散々迷った挙句、いつまでもジロジロと見ているわけにもいかず、そうかといって声をかける勇気が出なくて、何も言わずに次の駅で車両を乗り換えて、その女性が座ったところを見たらやっぱり妊婦だった。


なぜ大谷翔平に魅了されるのか?



そういう出来事があるたびに、「大谷翔平ってやっぱすげえよな」と思う(唐突だな)。彼だったらおそらく、何の迷いも躊躇いもなくすっと、あの爽やかなベビーフェイスで「ドア、押さえますよ」「席、どうぞ」と、言えてしまうのだろう。される側も「どうもありがとう!」と素直に受け取れるし、見ている周りの人も「さすがだなあ」と感心することになる。WBCの映画を観に行ったら超満員だったけど、その理由がわかる気がする。オオタニさんみたいな、スマートで飾りげのない気遣いや優しさを見せられる人間は、なかなかいないものねえ。


オオタニさんと比べてしまうと、僕が同じことをしても「売名行為」「偽善者気取り」「どうせ下心がある」と言われても、何だか仕方がないように思えてくる。いや、誰もそんなこと言ってないし思ってもいないと思うけど、やっぱりオオタニさんの優しさや思いやりには、感心するくらい嫌味なところやわざとらしさがないよね。


でも、それは、大谷翔平という一人の人間が、長い間積み重ねてきた結果なのだろうと思う。オオタニさんだって、はじめからできた人間だったのではなくて、少しずつ他者への思いやりや労りを積み重ねて、今のような野球星人になったのだろう。言い換えるなら、オオタニさんは「善行に慣れている」のだ。僕らがオオタニさんレベルになるのは無理かもしれないけど、ベビーカーを押す女性がいたらドアを押さえるくらいは、涼しい顔でさらっとできるようになりたいものだね。根暗陰キャには無理って言ったやつは出てこい


それにしても、この国に住んでいると(この国しか住んだことないけど)、日本の男性の女性への配慮や心遣いのなさというか、女性に対する不寛容さには、幾度となく呆れさせられますよね。政治家はもはや言うまでもなく(当たり前のようにそう言われるのって結構やばいんだけど)、一般の男性でも「もうちょっと気を利かせろよ」と思う場面って、男で陰キャの僕にしてさえかなりある。特に出産や育児に携わる女性は大変だろうし、不安や心細さもあるだろうから、行政や公的機関に任せっきりじゃなくて、もっと日常的な場面で周りの人が手を差し伸べたり、気軽に手伝ったりできる社会にはならないものかね、と思わなくもない。


最大の贈与は「教育」


ええと、また野球の話題が続いて申し訳ないけど、今回のWBCでは、ダルビッシュ有が本当に素晴らしい選手になったなと、感動した人も多いだろうと思う。ダルが合宿初日から来てくれなかったら、これほど結束力の高いチームはできなかったのは間違いない。


でも、ダルにとっては、もしかすると当たり前の行動だったのかもしれない。彼はかつてのイチローがチームリーダーとして先頭に立ってチームを鼓舞する姿を見てきて、次にその役割を受け継ぐのは自分なのだと、自然に理解したのだと思う。外から見ている分には「自分の調整を犠牲にしてまで」と思うけど、本人にとっては「普通のこと」だったのかもしれない。


それに、ダルは「チームのため」という側面だけでなく、自分自身が若い選手の面倒を見ることを楽しんでいたのではないだろうか。自身がキャリアの中で磨いてきた技術や考え方を、日本の才能ある若き投手たちに伝えることに、ダルビッシュはやりがいを感じていたのかもしれない。


ぼんやりとYouTubeを見ていたら、ノムさんのインタビューが出てきた。王貞治や金田正一などの往年のレジェンドに、「今のプロ野球でも活躍できますか?」と質問をぶつけていて、その中でノムさんは「無理、オレにはレベルが高すぎる」と即答していた。


でも、その後に「でもおれは、選手としての成績よりも、自分が指導者としてプロ野球のレベルをここまで引き上げ、この世界を発展させることに貢献できたのが、何よりの誇りなんだよ」と語っていて、それが心に響いた。


ノムさんは故事成語を引用しながら「財産や偉業を残すことも素晴らしいが、ひとを残すことはもっと素晴らしく、そして難しい」と、いろいろな場面で語っているけど、たぶんそれが人間の本質なのだと思う。孤高の天才打者イチローも、いまでは高校生の指導に熱を入れているようで、伝説になるような選手であっても、やはり自分が培ってきたものを後世に伝え残したいという欲求があるのだろう。いずれダルビッシュも指導者の道を歩むことになるのだろうな、と僕は漠然と感じている。



自分が人に何かをもらうよりも、自分が他者に優しくしたり何かを分け与えることにより大きな喜びを見出すようになることが、「大人になる」ということの本質なのかもしれない。その中でも、「教える」ことは、ひとりの人間が他者に対してなしうる最大の「贈与」である。


実際に、人に何かを教えたい人は、世の中に溢れかえるほど存在している。「自分という人間が誰かの役に立っている」という実感を得るためには、他者への贈与という行為が必要で、教育は自分という存在の一部を分け与えることだから、「教えたがり」はある意味仕方がないのだろう。まあ、迷惑なときも多いけど、それはまた別の話。


がんばれマジグマくん



親善大使マジグマからだいぶ話が脱線したけど、要は「人間はひとに分け与えることで生きがいや喜びを感じる」という話をしようとした。


僕も交換の弾にするために、色違いや幻のポケモンをせっせと集めていたこともあったけど、今となってはそれらをほぼ無償で配ることに抵抗を感じるどころか、むしろ喜んでもらえて嬉しいくらいになってしまって、最近ポケモンを始めた友達に「このポケモン、持ってるか? 持ってないならあげるぞ」と配りたがりおじさんになってしまっている。


もちろん、人間は一方的に分け与えることばかりしていると、「どうして自分はこんなに人のために頑張っているのに、自分には誰も何も返してくれないんだ」と不満を抱くことになるので、贈与もほどほどにするべきではある。お互いに、自然に、ほどほどに、とバランスを保つことが大切である。



でも、オオタニさんほどでなくても、もう少しだけみんなが優しさや思いやりを持てるようになれば、今よりも住みやすい世の中になると思うのだけど、なかなか難しいね。特に男は。



いずれにせよ、友好の証である親善大使マジグマくんには、思い切り頑張ってもらわないといけない。ゴーゴー・ベアーズ。

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