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シリーズ 「アラブナショナリズムとエジプトとスエズ危機」第2回 第一次中東戦争とアラブの苦い敗北

はじめに 

 今回は本題の第二次中東戦争の前史的な意味合いで第一次中東戦争を見ていきます。現在のパレスチナ問題の出発点になるこの戦いはアラブ側の敗北で終わります。この戦争が与えた影響はアラブナショナリズムの覚醒のきっかけになったと言ってもいいでしょう。アラブ側の軍隊は腐敗した王政によって貧弱化しており(ヨルダンは除く)その批判が革命へと繋がっていくのです。また、イスラエルにとってこの戦いは国が生まれた瞬間に国の存亡に陥るという非常に危機的なものでした。この経験は今の超軍事大国イスラエルを誕生させるきっかけになります。

 このような現代へのリンクをしながら本項を読んでいただければ幸いです。

第⼀次中東戦争 

*左写真 エイラートにおいて⼿製の国旗を掲揚するアブラハム・アダン⼤尉。彼は後に機甲師団師団⻑として中東戦争を再び戦う。
右図 第⼀次中東戦争における初期のアラブ連合軍の侵攻。 


ここからの項で抑えてほしい点は 2 つある。
 1 つ⽬は、エジプトをはじめとした中東世界では反帝国主義的運動がおこり、その急先鋒がエジプトであった。

 2 つ⽬にエジプトとイギリスとスエズ運河の関係。イギリスは⾃国⽀配域の結節点としてスエズ運河を重視しており、同様にエジプトもスエズ運河をナショナリズム的、経済的にも重視していた。 以上の点を最低限抑えていただきたい。 
 スエズ動乱は中東戦争の位置づけとして、第⼆次中東戦争と呼ばれることもある。第⼀次中東戦争は今⽇イスラエルと呼ばれる強⼒な国家の最初の苦難であり、記述するべき項⽬も多岐に渡る。しかし、ここではスエズ動乱の理解するための歴史として、第⼀次中東戦争を取り上げることにしたい。
 第⼀次中東戦争は概要だけ述べてしまえば、イスラエルを建国したユダヤ⼈と、イスラエル建国に反対したアラブ諸国との戦争である。この戦争の呼称をイスラエル側は独⽴戦争、アラブ側はパレスチナ戦争としていることからも両者の譲れない意思が垣間⾒える。
 第⼀次世界⼤戦以降パレスチナに⼊植してきたユダヤ⼈と現地のパレスチナ⼈とは、散発的な衝突があり、対⽴は根深いものであった。この動きが激化すると当時同地域を委任統治していたイギリスは、統治に限界を覚えこの問題解決を当時できたばかりの国際連合に依頼するとした。これを受けて国際連合では、1947 年いわゆるパレスチナ分割決議と呼ばれる国連決議 181 号という形で答えを出した。この決議の内容は、パレスチナをアラブ⼈の地域、ユダヤ⼈の地域に分割しエルサレムは国際管理下に置くというものだった。しかし、この決議ではパレスチナで圧倒的少数であったユダヤ⼈側にパレスチナの約半分の⼟地が 与えられる事になっていた。その他の観点から⽴っても明らかに不平等な裁定が下ったの である。11

(パレスチナの分割案 人口比を鑑みると公平化どうか疑問符が付く。)

 アラブ⼈側はこの決議を断固拒否し、誕⽣するユダヤ⼈国家を抹殺すると宣⾔し た。⼀⽅でユダヤ⼈側は、1948 年 5 ⽉ 14 ⽇イギリス軍が撤退すると当時にユダヤ⼈側はテルアビブにおいてイスラエルの建国を宣⾔した。両者の対⽴は決定的となり衝突、事実上 パレスチナは内戦状態に陥ってしまったのである。
 この状況にアラブ連盟のエジプト・ヨルダン12・シリア・イラク・レバノンの 5 カ国がイスラエル建国宣⾔直後に宣戦を布告し、アラブ連合軍が雪崩込んだ。当初イスラエル側はハガナ等⺠兵組織の兵⼒を保持していたものの指揮権の統⼀化がなされていなかった事やチェコスロバキアや多⽅⾯から買い付けていた兵器は未だ現地に到着していなかった。しかし、アラブ連合軍側も問題がある点では同様で、元々アラブ側各国軍は⾃国政府の護持が主任務であった。他国への外征を⾏うにはあまりにも貧弱な装備と練度であった。13当時義勇兵として参加していた後のPLO(パレスチナ解放機構)のヤセル・アラファトは、「当時、アラブ側は本気で戦争をする準備も計画も出来ていなかった。国連の分割決議案を受け⼊れるべきだった。国王たちは現実に疎かった。」14と回想している。
 上記のような純軍事的な⽋点に加えて、アラブ側は政治的な懸念も多く存在した。軍が国を留守にすれば、国内の不満分⼦のリスクが⾼まることへの懸念やパレスチナにおける外征に失敗した場合、現場軍⼈の不満は政府に向けられるといった不安要素をアラブ諸国は払拭できずにいた。事実イラク王政府やエジプト王政府は、戦後軍⼈によるクーデターによって崩壊している。エジプトはヨルダンがパレスチナに対して領⼟的野⼼を抱いているのではないかといった警戒⼼を抱いていた。このようにアラブ世界の主導権を巡って各々対⽴しており、決して⼀枚岩と⾔える状況ではなかった。アラブ連盟からの正規軍の派遣もパレスチナにおけるアラブ側⺠兵組織やアラブ解放軍の敗退が決定的となってからようやくという形で⾏われた。
 当初アラブ連合軍は戦局を優位に進め、エルサレムを包囲するまで攻勢をかけるもののイスラエル側も頑強に抵抗し、エルサレム新市街を死守した。この状況に国連の安全保障理事会が介⼊し、1948 年 5 ⽉ 22 ⽇には紛争当事国に即時停戦を要請、5 ⽉29 ⽇には 4 週間の休戦を提案した。これを受けて、アラブ側とイスラエル側は、双⽅停戦期間中の武器の持ち込み制限等に合意した。その結果、6 ⽉ 11 ⽇から 7 ⽉ 8 ⽇までの停戦が成⽴した。この休戦は苦戦していたイスラエルにとっては貴重な物となった。イスラエルはこの間に指揮権の⼀本化を図り、イスラエル国防軍として戦⼒を再編した。更にイスラエル外のユダヤ⼈義勇兵や第⼆次⼤戦後ダブついた兵器を合法的・違法的なあらゆる⼿段で⼊⼿し、戦⼒の⼤幅な増強に成功した。(スクラップの戦車を修理したり、だまし取ったりそれは涙ぐましい努力である。)⼀⽅アラブ側も損耗した各国軍の補充や整備を⾏ったが、依然としてアラブ連合軍の指揮権は⼀本化されず連携の取れないという問題を抱えたままだった。国連による和平調停案は双⽅から拒絶され、安全保障理事会の停戦延⻑の決議は、アラブ側の拒絶によって第⼀次停戦は終わりを告げた。
 同年 7 ⽉ 7 ⽇エジプト軍はパレスチナ南部より⼀⼤攻勢を開始するものの増強されていたイスラエル国防軍に防がれ、逆に攻勢を受けエルサレムの回廊を打通されてしまう結果となった。アラブ連合軍は兵⼒においても装備に関しても増強されたイスラエル国防軍に対して劣勢となっていった。アラブ連合軍は統⼀した指揮系統も共同した作戦計画も無いまま各個撃破された。ヨルダン軍がヨルダン川⻄岸地区を占領できたこと以外は、ほとんど失敗に終わり逆にイスラエル国防軍はパレスチナ平野部を掌握した。明らかに戦争の主導権はイスラエルに渡っていたのである。 7 ⽉ 18 ⽇に⾏われた第⼆次停戦が発⾏するが、すぐさま両軍は戦闘を再開し、ほとんど実効⼒の無いものとなっていた。10 ⽉ 15 ⽇から 23 ⽇にかけてネゲブ地⽅でイスラエル国防軍はエジプト軍を撃破、シナイ半島に進軍した。この進軍⾃体はエジプトに権益を有するイギリスのシナイ半島への侵攻は武⼒介⼊も辞さないとの警告を受けてイスラエル国防軍は撤退する。更にガラリヤ地⽅においては、シリア軍・レバノン軍双⽅を撃破した。アラブ側は逆侵攻を許すほどの⼤敗を喫し、この戦争の勝者は誰の⽬で⾒ても明らかであった。事ここに⾄り、1949 年 1 ⽉から 7 ⽉にかけてアラブ側各国とイスラエルは停戦ここに第⼀次中東戦争は幕を閉じた。
 イスラエルは、この戦争の結果後に続く 3 度の中東戦争の中でも最⼤の 6000 ⼈の戦死者(当時のイスラエルの⼈⼝の1%)を失いながらも独⽴を死守した。更に領⼟は分割決議で想定されていたユダヤ国家よりも遥かに⼤きな領⼟を獲得することに成功した。イスラエルは当初劣勢を強いられ国家誕⽣と同時に国家存亡の危機を体験した。この経験はイスラエルが国家存続の上で、周囲のアラブ諸国に対して軍事的な圧倒的優位を欲しイスラエルは強⼒な軍の整備はあらゆる事項に優先されるべきものと認識するようになる。
 ⼀⽅で、アラブ側が獲得することができたのは⼈⼝に⽐して僅かな領⼟と圧倒的優位からの敗戦であった。更に⼤量のパレスチナ難⺠を⽣み出した。これらの事実がアラブ側諸国にとって屈辱的であった事は⾔うまでもないだろう。このアラブ世界の敗北への批判の⽭先は当時の王政へと向けられ中東における相次ぐ⾰命の種となった。

11 詳しいデータは 著⿃井順『中東軍事紛争史』第三書館(1995)の p.58〜p59 を参照されたし
12 当時の正式名称はトランス・ヨルダン
13 ただし、ヨルダン軍のアラブ軍団を始めとして⼀部精強な部隊は存在した。
14 ⽩⽯光他『中東戦争全史』学習研究社、2002 年、p.38。

参考⽂献


・⿅島正裕「植⺠地⽀配の政治経済学 : イギリスのエジプト統治,1882-1914 年」
『⾦沢法学』、29 巻、1・2 号、1987 年。file:///C:/Users/gonnt/AppData/Local/Packages/Microsoft.MicrosoftEdge_8wekyb3d8bb we/TempState/Downloads/AN00044830-29-1-165%20(1).pdf (最終閲覧 2018/08/25)
・佐々⽊雄太『イギリス帝国とスエズ戦争』名古屋⼤学出版会、1997 年。
・君塚直隆「グラッドストンとスエズ運河 Gladstone and the Control of the Suez Canal」
『史苑』、52 巻、1 号、1991 年。file:///C:/Users/gonnt/AppData/Local/Packages/Microsoft.MicrosoftEdge_8wekyb3d8bb we/TempState/Downloads/AN0009972X_52-01_04%20(2).pdf (最終閲覧 2018/08/25)
・著モルデハイ・バイオルン 訳滝川義⼈『イスラエル軍事史 終わりなき紛争の全貌』並⽊書房、2017 年。
・著ハイム・ヘルツォーグ 訳滝川義⼈『中東戦争 イスラエル建国からレバノン侵攻まで』 原書房、1986 年。
・⿃井順『中東軍事紛争史』第三書館、1995 年。
・池⽥美佐⼦『ナセル アラブ⺠族主義の隆盛と終焉』⼭川出版社、p.104、2016 年。
・⼭根学『現代エジプトの発展構造』晃洋書房、1986 年。
・⽩⽯光他『中東戦争全史』学習研究社、2002 年。
・⼟屋 ⼀樹「エジプトの農業開発政策と農業⽣産の推移」『現代の中東』⽇本貿易振興会アジア経済研究所、2003 年。
http://hdl.handle.net/2344/511 (最終閲覧 2018/10/01)
・マーティン・ギルバート『アラブ・イスラエル紛争地図』明⽯書店、2015 年
・⼭⼝直彦『エジプト近現代史』明⽯書店、2011 年

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