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シリーズ 「アラブナショナリズムとエジプトとスエズ危機」第3回敗戦後のエジプト、王政の末路

はじめに

中東戦争に敗北したエジプト王国は最早余命いくばくもない状態でした。一方混乱するエジプトを牽引できる政治家や指導者はエジプト政界には存在しませんでした。そのような情勢からついにエジプトは旧態依然とした王政から新たな革命へと脱皮をはたすのです。

エジプト王国   

 この項⽬では、エジプト王国の歴史をエジプトの視点から述べていく。
 エジプト王国の成り⽴ちは 1805 年のムハンマド・アリーのエジプト⽀配体制確⽴までさかのぼる。ムハンマド・アリーはエジプトの積極的な改⾰を⾏い地租改正や官営⼯場の設⽴、エジプトの⻄洋化・近代化に邁進する。彼の率いるエジプトは宗主国のオスマン帝国とシリ アの⽀配権を求めて、戦争を⾏う。15しかし、欧⽶列強の介⼊を受けムハンマド・アリーは シリアの⽀配権をあきらめる代わりに⾃らの⼦孫に総督の座を世襲させることをオスマン 帝国に認めさせる。ここからエジプトは、ムハンマド・アリー朝が統治することになる。
 1869 年にスエズ運河を開通させることに成功するもののエジプトの財政危機は深刻なものであり、スエズ運河を経営する会社の株を売却するなどして財政改善を試みるが結局財政破綻してしまう。その結果債権者である英仏から介⼊を受け、経済的にエジプトは強い影響下に置かれることになる。これに反発した反英運動であるウラ―ビー⾰命が起きる。これに対して、イギリスは軍事介⼊を⾏いエジプトはイギリスの保護国となる。
 その後エジプト王国は第⼀次世界⼤戦終戦後のパリ講和会議を機にオスマン帝国から名実ともに分離することになる。第⼀次世界⼤戦を機に世界では⺠族主義が⾼まっていた。⺠族⾃決はエジプトにとっても強く望まれるものだった。エジプトは独⽴を求めて、パリ講和会議に代表団を派遣し、エジプトの独⽴を訴えるもののイギリスの抵抗によって挫折する。
 この出来事はエジプト国⺠の反英感情に⽕をつける形になり、⼤規模な反英活動へと繋が る。このことから 1922 年イギリスはエジプトの独⽴を容認した。16⼀⽅で、この独⽴容認はイギリスの軍事権やスーダンに関する統治は留保していたので、完全に独⽴をはたした わけではなかった。エジプトは 1936 年スエズ運河にイギリス軍駐屯させることを引き換えに主権を認めさせるというものだった。17このようにエジプトはイギリスの強い影響下の中 で、歴史を歩んできた。イギリスにとってスエズ運河はインドへつながる最重要拠点であり、そのスエズ運河を有するエジプトもまた重要拠点であったのだ。その為経済的な介⼊やウ ラ―ビー⾰命時の軍事介⼊等度々エジプトに対して、介⼊を繰り返した。これが⺠族主義に⽬覚めつつあったエジプト国⺠の感情にどのような影響を与えたかは、⾔うまでもないだろう。
 エジプトでは反帝国主義とアラブ⺠族主義の機運が⾼まり続けた。このの思春期の若者のような反抗期的爆発的情熱に対して、エジプト政府は対応に苦慮し続けた。これに対応するエジプト政府は、最も国⺠が忌避するイギリスの影響下にある政府であった。その不満が蔓延する中で、第⼀次中東戦争が勃発する。18エジプトの経済的・政治的⾏き詰まり、そしてアラブ⺠族主義のフラストレーションは⼀挙にこの中東戦争に注がれる。その顕著な例として、エジプトの政治団体であるムスリム同胞団は「ユダヤ⼈に対する聖戦の遂⾏にのみ局⾯の打開の道、つまりイスラム政府を⼀挙に樹⽴する道があると判断」と考え積極的に戦争に参加するようになった。19しかし、中東戦争に惨敗し国⺠のフラストレーションはより⼀層⾼まり、「神の軍隊」と呼ばれる秘密機関によるテロ⾏為も頻発した。さらにエジプトの物価は 5 年間の間に 4 倍に跳ね上がるなどエジプトは⼤混乱に陥っていた。当時政権を握っていたワフド党はこれらの問題に対する対策などを訴え、選挙に勝利するものの結局解決に⾄らなかった。このような内政⾯での失敗を対外政策によって取り戻すべくイギリスに対して、1936 年に結ばれたエジプト=イギリス条約の破棄を 1951 年に通告する。しかしながらイギリス政府は、この破棄を認めず依然スエズ運河に軍を駐屯させ続けた。このイギリスの対応に国⺠感情は沸騰し、ワフド政権は警察や労働者からなる解放戦線によるテロ⾏為を⾏いこれを正当化せざるをえなかった。この動きに連動して、カイロにおいては暴動と放⽕が起き無政府状態にまでなってしまった。この暴動やデモの⽭先が王政府に向かうとファールーク国王は、軍を展開させ鎮圧している。これ以後国王は何度か内閣改造を⾏い事態の鎮静化に努めようとするが、⾃体はその程度で解決する段階をとうに過ぎていた。
1952 年このような状況下で、ついにナギルとナセル率いる「⾃由将校団」によるクーデターが起きることになる。

15 オスマン帝国との戦況は圧倒的にエジプトが押しており、列強の介⼊がなければエジプト軍はイスタンブールに⾄ったであろうと⾔われている。   16当時のイギリス植⺠経営はインドを除き費⽤対効果に乏しかった。
17 エジプト=イギリス同盟条約
18 第⼀次中東戦争については前項を参照の事。 19 ⼭根学『現代エジプトの発展構造』晃洋書房、1986 年、p.75。

参考⽂献

・酒井傳六『スエズ運河』新潮新書、1976 年。
・⿅島正裕「植⺠地⽀配の政治経済学 : イギリスのエジプト統治,1882-1914 年」
『⾦沢法学』、29 巻、1・2 号、1987 年。file:///C:/Users/gonnt/AppData/Local/Packages/Microsoft.MicrosoftEdge_8wekyb3d8bb we/TempState/Downloads/AN00044830-29-1-165%20(1).pdf (最終閲覧 2018/08/25)
・佐々⽊雄太『イギリス帝国とスエズ戦争』名古屋⼤学出版会、1997 年。
・君塚直隆「グラッドストンとスエズ運河 Gladstone and the Control of the Suez Canal」
『史苑』、52 巻、1 号、1991 年。file:///C:/Users/gonnt/AppData/Local/Packages/Microsoft.MicrosoftEdge_8wekyb3d8bb we/TempState/Downloads/AN0009972X_52-01_04%20(2).pdf (最終閲覧 2018/08/25)
・著モルデハイ・バイオルン 訳滝川義⼈『イスラエル軍事史 終わりなき紛争の全貌』並⽊書房、2017 年。
・著ハイム・ヘルツォーグ 訳滝川義⼈『中東戦争 イスラエル建国からレバノン侵攻まで』 原書房、1986 年。
・⿃井順『中東軍事紛争史』第三書館、1995 年。
・池⽥美佐⼦『ナセル アラブ⺠族主義の隆盛と終焉』⼭川出版社、p.104、2016 年。
・⼭根学『現代エジプトの発展構造』晃洋書房、1986 年。
・⽩⽯光他『中東戦争全史』学習研究社、2002 年。
・⼟屋 ⼀樹「エジプトの農業開発政策と農業⽣産の推移」『現代の中東』⽇本貿易振興会アジア経済研究所、2003 年。
http://hdl.handle.net/2344/511 (最終閲覧 2018/10/01)
・マーティン・ギルバート『アラブ・イスラエル紛争地図』明⽯書店、2015 年
・⼭⼝直彦『エジプト近現代史』明⽯書店、2011 年

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