令和時代の余白のなさ

以前、知人が「誰かから来たメッセージを読む時、自然と相手の声をイメージして読んでいる」と話していたことがある。

私はその時衝撃を受けた。その感覚が全くなかったからである。
LINEには様々なツールがある。文字のみ、文字に絵文字がついている、スタンプのみ、小さくて通知が来ないスタンプ?のみ。それぞれに苦手意識がある。
顔の見えない状態で文字でのやり取りをしているときに、「この人は本当に自分が思っていることを素直に書いているのだろうか」「実は思ってもいないことを関係を円滑に保つために書いているのではないだろうか」と不安になるのだ。

そもそも、人とやり取りするのが苦手なのではないだろうか、と思ったりするのだが、どうして令和時代はこうも自宅でも明確に高音質でやり取りができる環境が整っているのだろうか。
もう少し人と人との間に余白がほしい。距離感がほしい。

例えば縄文時代なんて、どうだろうか。近くにいる人としかやり取りできなかったのだ。それはそれは、頭はクリアだろう。羨ましい限りである。

平安時代なんて、どうだろうか。彼らは思いの丈を文にしたためて、届けたというが。もしかしたらそれくらいのコミュニケーションが良いと思っている人が一定数いるのではないかと思う。

令和時代はみんな大変だろうと思う。一人で過ごしているのに携帯電話からいつでも連絡が来るなんてどうかしてる。変な世界。周りに影響を受けすぎる性質の人たち、大人も子どもも、違和感を感じたら逃げたらいいと思う。

ちなみに、今のところLINEに加えて、instagramやXは現在使用しているが、同様疲労感が凄まじく、後者2つは何か必要があればログインして、普段は携帯から消している。この過程が本当に心を楽にしているように感じている。

たまに全てが馬鹿馬鹿しくなり、これらのアプリを全てやめて、むしろ携帯電話を持つことすらやめたらどうか、なんて考えたりもする。
そしたら、一人を本当に楽しめるようになるんじゃないかなと。




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