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声なき者の想いを語り継ぐ

カナダの新しい記念日、National Day of the Truth and Reconcilationだった今日、9月30日。私はオレンジシャツを着た。オレンジシャツは、カナダでは先住民迫害の歴史への償いの印でもある。

5月末、カナダ全土に衝撃的なニュースが走ったのは、記憶に新しい。レジデンシャルスクールと呼ばれるカナダの先住民が強制的に寄宿生活をさせられた学校跡地から215体の遺体が見つかったのだ。

そして、その後もあとからあとからレジデンシャルスクール跡地から、新しい遺体が見つかっている。そして、カナダ政府は9月30日を償いの日として制定したのだった。

今日、この日に、日系二世のお友達が投稿した記録を和訳して、とどめておきたいと思う。

和解のトーテムポールが呼び起こす誰も聞いてくれなかった先住民の声

私は過ちを犯すが、この社会を良くしたいと思っている。あなたはおかしくない。私はあなたの声に耳を傾けているよ。

先住民が強制寄宿させられたレジデンシャルスクールでの出来事がカナダを震撼させた今、数か月前の私の体験を聞いてほしい。

ブリティッシュコロンビア大学の公園を子供たちと訪れていた時、私は通りの向こう側にある大きなトーテムポールを見に行くことにした。近くを何度も通り過ぎているが、ハイダ族がなぜこのトーテムポールを建てたのか、知ろうともしなかった。それは「和解のトーテムポール」と記されていた。

このトーテムポールを見に行った時、奇しくも1週間前にBC州カムループスのレジデンシャルスクール跡地で215体の子供の遺体が見つかったニュースが流れたばかりだった。

私がこのトーテムポールを見上げて驚いた。2つの大きなレジデンシャルスクールのレプリカの下に、2つの大きな骸骨が酸化した銅の釘で描かれていたのだ。後ずさると、このトーテムポールを2017年4月に建立するときに手伝った、という男性が近づいてきた。

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*写真はお借りしています。(Courtesy Yumiko Sasakawa)

「骸骨が・・・」と私は上を指さした。

男性は畏怖を持ちつつ、笑みを浮かべながらこう言った。

「そうなんだ、このトーテムポールを掘った彫刻家がレジデンシャルスクールの下には子供が埋まってるって教えてくれたんだ。これを建てたときには”この人、ちょっとおかしい”と思ってたんだけど、先週のニュースで聞いただろう?彫刻家は正しかったんだよ」

和解のトーテムポールの解説には、68000以上の銅の釘は、レジデンシャルスクールで命を落とした子供たちの冥福への祈りだ。1本ずつの釘は子供を表現している、とあった。

この釘は、レジデンシャルスクールからの生き残り、その家族、被害者家族だけでなく、一般の学童や市民によって撃ち込まれた。

私の子供たちはまだ幼く、すべてのことを把握はできないが、上の子は、先住民の芸術やトーテムポールに興味を持ったようだった。私たちは、初めてこのトーテムポールの話を読み、ともにその背景を学んだ。

このトーテムポールを作ったのは、ジェームズ・ハートというエデンショウ・バンドに所属するハイダ族の酋長で彫刻家の長でもある。疑う余地もなく、この彫刻家は銅の釘が丸太の表面で酸化し、黒くなることを知っていた。このトーテムポールが建立された時、各メディアが撮影した写真ではこの骸骨は丸太の色に同化して見えにくかったのだ。だが、時とともに輪郭が黒く、太くなり、誰かが気づき、このことを聞いてくれるのを待っていたのだ。その先見の明の英知に脱帽した。たとえそれが胸が痛むような事実だったとしても。

私は誰も聞いてくれなかった先住民の深い深い悲しみの声を受け止めようとしている。もっと先住民の歴史を学ぼうと決意した。たとえカナダにどれだけ黒歴史があろうと私の母国、カナダへの愛は変わらない。ただ、事実を知ることが、私の国をもっとよくしたい、と私を掻き立てるのだ。日系人として、カナダが過去、日本人を抑留していたことも同じく私の機動力だ。

私は過ちを犯すが、この社会を良くしたいと思っている。あなたはおかしくない。私はあなたの声に耳を傾けているよ。

~和訳に同意してくれたYumiko Sasakawaさんに敬意を表します~

多様性とはなんだろうか?

移民大国であるカナダは、移民に対して母国の文化や言語を持ち込むことに寛容だ。だが、長い間、先住民に対してはそうではなかった。この記事にあったレジデンシャルスクールは1996年まで存在したのだ。

1988年にはMulticultural Actが制定されていたにも関わらず、先住民はずっとその文化や言語を許されない場があったことになる。大きな矛盾を感じる。

だが、このレジデンシャルスクールでの事実を認め、だからこそ、これからどうしたらいいのか、を考えているからこその新たな記念日の設立だったのではないか、と私は考えている。

責めることを誰にでもできる。責任を追及したら、物事がなんでもうまくいくのならそうすればいい。だが、問題はそれでは解決しない。

このレジデンシャルスクールは、「多数決が物事を解決しない」というお見本のような例だと思う。当時の人々は、こうすることが先住民の幸せでもあると信じてやまなかったのだろう。

事実は事実として受け止めて、ここからどう新たな社会を作るのか。

子供たちとのんびり過ごしながら、彼らは一体こういう歴史的な事実をどう受け入れ、どう考え、行動していくのだろう。きっと私とは違う視点で、彼らの答えを見つけていくのだろう。

その答えがたとえ私と違っていても、それを受け入れる自分でありたい。




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