見出し画像

文豪志望わたし、チョコレートに死す

なんといっても わたしは、食べものに対して不器用である。

もう少し具体的に説明すると、イートとライフのバランス的なところが、ワークとライフのバランス的なものに匹敵するくらいに、すこしも制御できない。
ワークとライフのバランス、最近はけっこう、風潮的に改善されてきているようだが、わたしのイートとライフのバランスの方は、世間から改善の余地すら見出されていない。声を上げようという人が少なすぎるのである。世間様仏様から見放された わたしのこの、イート・ライフ・バランスについて今日は書いていきたい。

まあでも、これはけっこう、みんなもそうかもしれない。おそらくわたしだけが陥っている事態ではない。
けれど今回ばっかりは、自分だけが被害者面、していたいので、自分ばっかりがそう、みたいなテンションで書き進めていく。

チョコレート、食べないときは食べなさ過ぎで、食べ始めたら食べ尽くしてしまう。

食べないとき食べなさ過ぎる、というのはまあ、別に悪いことではない。また、一般的に人というのは、食べないときは実に、食べなさ過ぎるものである。
これらはなぜこうなのか、というと、チョコレートなんて基本的には食べない方がいいし、チョコレートを食べていないときに「チョコレート食べた方がいいよ」という助言をしてくる人が居ないからである。

「食べなさ過ぎる事態になんらかの手を加える必要はない」。多くの人間がこのように言う。
けれど、それは誤った認識である。
なぜかというと、その「食べなさ過ぎる事態」が「食べ尽くしてしまう事態」を誘い起こしている可能性が大いにあるからである。

「食べなさ過ぎる事態」間に、「食べなさ過ぎゲージ」が満タンになったわたしの目の前に大袋のチョコレート菓子が現れたとする。このチョコレート菓子は1時間後どのような運命に見舞われるかというと、これはもう、もはや書くことが野暮である。ここで素直に書いているようじゃ文豪志望なわたしの今後 一生不穏。詰まるところ、一生安泰の逆。

「食べなさ過ぎゲージ」、貯まっていることをいいことに体が、チョコレートを前にすると  食い尽くす方向にしか進まない設定になるのである。

口の中にまるっと1個 入れて溶かす、というのと、前歯で少しずつ噛み砕いて  湯煎する前のチョコレートを口内に再現し溶かす、という二通りのたしなみ方を交互に行う、だけの機械。

わざわざ 1個 1個 個包装してくださった、製造の皆さんのその労力に中指を立ててしまうその、忌まわしい機械を、わたしは「チョコレート工場泣かせ工場」というふうに呼んでいる。

今回は、チョコレートへの不器用さについてしか言及できなかったが、本当はもっと様々な食べものに対しての不器用を、様々に持っているのである、わたしという工場は。
それだけを書き置いて、取り敢えず紗々を冷蔵庫から出してくる。箱を眺めてみるだけで、うっとり。そうっと開けて、ひとつを手に取り、今回こそは食べ尽くさぬように、と細心の注意を払っているうちに、その、注意 払っている手の動きに由来するオートマチックな動作から、またまた書きあらわすのも野暮な事態に!

DEATH

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?